From Cinderella

 第2話
「…仕事、忙しそうだったから…こんな時間にはいないよ、ね…」
そう思う反面で、どこかどきどきしていて緊張が止まらない。
理由は、もしも部屋にいたとしたら、何て切りだそうか…なんて、そんなことを考えているからだ。心が落ち着かなくなる。

公園まで辿り着いたあかねは、マンションの最上階に目を凝らしてみた。
一度しか行ったことはないけれど、確か一番左の……バルコニー。カーテンは閉まっているみたいだけれど……。

どきん、と大きな心音。そして小刻みに早まり出す鼓動。
目に映るのは、ぼんやり内側からこぼれている部屋の明かり。
"う、うそ…まだ、夕方なのに"
ここまでやって来て、焦って来た。まさか、こんな時間に彼がいるなんて思わなかったから。
深夜はおろか、明け方に帰宅することもザラだと聞いていたのに、まだ4時半…。
「どうしよう……」
白いリボンを結んだ紙バックを、思わず両手で抱きしめる。シードルとバタースコッチ。これを彼に渡すために来たのに、部屋の明かりを見たら……足が止まってしまった。
いたからと言って、何が変わるものじゃないと分かっているのだけれど…変にどきどきし始めた鼓動は、なかなか平穏へ戻ってはくれない。

「で、でも…渡すために来たんだから!行かなくちゃ…ね」
一大決心という感じで気を引き締めて、あかねは一歩前に踏み出す。そのたびに、マンションへの距離が着実に狭まって行く。
一歩のリズムと心臓の音が、いつのまにか同化して、出来るだけゆっくり…地を踏みしめて時間を稼いだ。

とは言っても、実際は100メートルくらいしか距離がなかったので、いくらゆっくり歩いてもすぐに辿り着いてしまった。
「余計な事考えないで、いつものように…」
自分に言い聞かせて、深呼吸をしてからもう一度上を眺めた。
「あれ?」
思わず目をこすったけれど、見間違いではない。ついさっき…部屋からは明かりが漏れていたはずなのに、見上げてみたら真っ暗。
変に意識しすぎてて、幻覚でも見たんだろうか…と思い返す。
だが、部屋が暗いと思うと妙に気持ちも落ち着いてきて、逆にこれまでの動揺から見たら拍子抜けという感じだ。
「まあいいや…いなければ、管理人さんに渡せばいいんだもんね」
気楽になったはずなのに、ぽっかり胸に穴が開いてしまったような…気もするし。
微妙な気持ちのままで、あかねはマンションの玄関ロビーへ続く階段を上がった。

+++++

ロビーの突き当たりの部屋には、管理人が常時待機している。
宅配便やら郵便等は、留守の間は預かってもらえるらしいので、取り敢えずあかねはそこへ向かおうと思った。
ホテルみたいに広々としたロビー。しかし、そんなフロア全体に響く女性の声が、思わずあかねの足の歩みを自然と止めた。

「ですから、橘さんに急用がありますの。出来るだけ早急に、連絡を取る必要があって、こちらに伺っておりますの。」
若い女性の声だ。丁寧な口調ではあるが、少し感情的な雰囲気も感じられる。
友雅の…知り合いの女性…?まさか、恋人……とか……。
今迄と違った理由で、鼓動が高鳴る。息苦しさも伴って。

「いや、ねえ…そちらが困っているのも分かりますけれど、うちとしても困っている立場なんですよ。」
そのうち、管理人の男性の声も会話に交じってきた。
「うちだって、長期で留守にするときは連絡してもらわないと、困っちゃうんですよ。預かれるものとかも限度があるしね。」
「連絡は?それか、橘さんへの連絡先とかご存知ではありませんの?」
「そんなの知っていたら、すぐに連絡しますよ。分からないから、こっちも困ってるんですってば。あなたこそ、お部屋に入れるのなら連絡先くらい、伝わってないんですか?」

しばらくそんな押し問答が続いていて、あかねは柱の影に隠れたまま出られない。
そこまでして友雅と連絡を取りたいなんて、どんな関係の女性なんだろう……。
部屋に入れるということは、暗証番号か合い鍵かを持っている?
そんな女性なんて、家族か…もしくは……。
憶測は、どんどん深みにはまって、呼吸が少し苦しくなってきた。周囲の事さえも、頭が回らなくなって来る。

決して引く事のなかった彼女も、さすがにしばらくすると観念したらしい。
「承知致しました。では、本日は失礼させて頂きます。もし、橘さんがお戻りになられた様子があったら…または、ご本人からご連絡があった場合は、こちらまですぐに連絡をお願い致します。私も、急用ですので」
そう言って、管理人に名刺を一枚突きつけると、くるりと背を向けて立ち去って行った。


「きゃっ…!」
鈍い衝撃と、高い声がした。すると、目の前に高校生くらいの少女が、床に転がって座り込んでいた。
身長差が災いして、彼女の姿が視野から外れてしまい、真正面から遠慮なく衝突して倒してしまったようだ。
慌てて彼女は、その場に腰を折って少女の肩を取った。
「ご、ごめんなさい!気付かなくて…。怪我、なかったかしら…」
「あ…大丈夫です、ちょっと私もぼんやりしてて……」
長くてすらりとした白い指に、手を引かれて立ち上がったあかねは、顔を上げたが…その瞬間どきっとした。

ワインレッドのスーツ、ハイヒール。腰まで伸びるストレートのロングヘアは、亜麻色。そして、こちらを見る宝石のような色の瞳…。
以前、車の中で見かけた…外国人らしき女性。
あの時は外で暗がりだったけれど、こうして光のあるところで間近に見ると…魂を抜かれてしまいそうだ。
息を飲む美貌というのは、きっとこういう女性のことを言うんじゃないかと思う。
「本当にごめんなさいね。足、くじいたりしてないかしら…」
「あ…平気です!す、すいません…」
同性なのに、どきどきしてしまう。緩やかに動く、唇の色の美しさに目を見張る。
「そう。なら良かった。それじゃ……」
立ち去っていく、その身体のラインと細い足から響いて行くヒールの音。
それはまるで、女神。例えて言うなら、そんな形容詞がしっくり来る。
彼女のすべてに"美"という言葉がマッチする。


「あなた、どちら様?うちのマンションの人に御用?」
ロビーを出て行く彼女の姿を、ぼんやり眺めていたあかねの背後から、管理人の男性が声をかけた。
「あ…あの…橘さんにちょっと…」
彼女のあとに、同じような話を言うのも、何となく気まずい。
あれだけ喧々囂々としていただけに、また嫌な顔をされてしまうのではないか…と思ってしまう。
それに加えて友雅の印象まで、悪くなったら申し訳ないかな…。考える事は、様々浮かんで来る。
しかし、男性はさっきの女性と話している雰囲気とは違って、穏やかな表情をしてあかねの顔を見た。
「ああ…何だ、お嬢さんも橘さんに用事だったのか。橘さんはね、ここを引き払ったんだよ。」
「え?でも…今、あの女の人には長期で留守に、って……」
引っ越し?そんな話、全然聞いていなかったのに。
てっきり仕事が立て込んで来ていて、あのウイークリーマンションに滞在していたと思っていたが。

すると、管理人である彼は頭を掻きながら、微妙に眉を歪ませて言った。
「んー…詳しい事は分からないんだけどね。口止めされていたんだよ。金髪の背の高い女性が来たら、しばらく留守にしていて連絡が取れない、って言っておいてくれって。」
金髪の女性ということは、彼女に限って何も伝えるな、ということ?
ということは、友雅は少なからずさっきの女性と何らかの関係を持っているわけで、しかも彼女の目から逃げようとしている…?
一体、何故?

「あ、あの…引っ越し先って分からないんですか?」
「いや、それはまだ連絡がないんだ。ただ、近いうちに必要なものだけは取りに行くから、そうしたら残りは勝手に処分していいって言われているけどさ」
引っ越し先なんか知らなくても、次の日曜日には必ず逢えるのだから構わないんだ…けれど。でも……。

「お嬢さんさあ、橘さんとはどういう関係なの?」
顔を上げると、彼が首をかしげてあかねを見ていた。
もしかして、変な詮索されてる…!?
「あ、別にそのっ……な、何でもないです!そ、それじゃ!」
あかねは慌ててその場を立ち去り、全速力でマンションを飛び出した。

そりゃあ、私みたいな…どう見ても女子高生が友雅さんのマンションに来るなんて、変な目で見られても仕方ないよねえ…。
あんな綺麗な人だったら、別に違和感も何もないだろうけれど、私じゃ…ね。好奇の目で見られちゃうよ。

公園のベンチに座って、夜風に吹かれながら、はあ…とため息をついた。
喉が乾いたけれど、シードルなんて飲めない。
そのかわり、紙袋の中のバタースコッチをひとつ、口の中に放り入れた。
『やっぱ…せいぜいキャラメルがいいトコロだよねえ…私なんて』
空虚感のため息が、甘い息と共にこぼれた。


彼は、さっきの少女が妙に気になった。
随分と若い女の子だけど…橘さんの妹…でもないだろうな。
でも、まさかそういう付き合いをするような人でもないしなあ…などと、色々考えながら管理人室に戻ろうとした。
その途中で、足下に転がっている何かが、ロビーのライトに反射して輝いていた。
「ん?これは…?」
拾い上げたそれは、きらりとした銀細工のブローチ。木の葉の形に、水色のしずくが落ちたような宝石が数個。

「……どっちの落とし物だ?」
金髪美人か、それとも可愛い女の子か。華やかな女性の胸元にも似合いそうだし、ちょっとした若い女の子のアクセサリーにも合いそうな気がするし。
「ま、いずれ橘さんが来たら渡しておけばいいか。」
彼はそれをポケットに突っ込むと、再び管理人室のドアを閉めた。



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Megumi,Ka

suga