From Cinderella

 第1話
黒いケースに入ったまま、壁に立てかけられているギターを、イノリはぼんやりと眺めていた。
古ぼけた傷だらけのケース。それに似合うくらい、使い込まれたアコースティックギター。それは、イノリよりもずっと長い歴史を持つ。

「どうしたんだい?私が持っているものなんて、それほど価値のあるものなんかないよ?」
ダイエットコーラの缶をひとつ、イノリの前に差し出した。すぐさまそれを掴むと、プルトップを開けて一口分を喉に流し込む。
「…このギターだけは、別格だろ」
振り返ったイノリは、そう答えた。汗をかいた身体に、炭酸の刺激が心地良い。
「あんたの愛用してるギター…あのMartinだよな。しかも、D-45。」
「詳しいね。でも、古いだけだよ。」
友雅は簡単に言い切るけれど、古ければ古いだけプレミアがつくモデルだと、知っていて言っているのだろうか。

"Martin"と言えば、アコースティックギターではトップクラスのメーカー。D-45は特に人気の高いモデルで、古い年代のものは数百万という価格が付けられることもザラだ。
イノリのバンドメンバーも、やっとのことで新品を購入したが、それでも未だにローンを引きずっている。
そこまでしてでも欲しいと思わせる、垂涎の逸品。少しくらいしかギターを使わないイノリも、少しくらいなら触れてみたいと思う。

「古いのは、見れば分かるけど…どんだけ古い年代なんだよ、コレ」
「さあね…元々、私が購入したものじゃないから、詳しくは分からないけれども…69年とか、そこら辺り前後だったと思うよ。」
「ろっ…69年…?」
イノリが思わず、息を飲んだ。
69年モデルと言えば、D-45の中でも特別プレミア率の高いものだ。
この間、メンバーが楽器屋から届いたカタログを見て、500万円くらいの値が付いたモデルにため息を付いていたが、それこそがこの69年モデルだったはず。

「あの、さあ……せっかく俺、オフ返上で引っ越しの手伝いに来てやったんだからさぁ、ちょっとくらい御礼もらっても良いと思うんだけど?」
珍しくイノリが、しおらしい態度でこちらを見た。


…よく晴れた水曜日の午後。
二週間ぶりのオフというのに、急に友雅に呼び出されたかと思ったら、引っ越しの手伝いだと言われた。
しかも、またどうしてこんなところを選んだのか…と問い質したいくらいの郊外、と言えば聞こえは良いが、つまり田舎町のようなのどかな風景という事だ。
どう見ても、都会のマンションなんかに暮らしているイメージなのに。しかも、随分と年季の入った日本家屋のようで。
裏手には民家に不釣り合いとも言えるような、紺色のアウディが停車してあるし。それがまた、彼の自前の車だと言うし。
…まったくやる事成す事、訳の分からない事ばかりの友雅だが、来てしまった以上は逃げるわけにも行かなくて、言われるがままに引っ越しの手伝いをさせられてしまった。

とは言っても、イノリに託された作業は、梱包されたままになっている新しい家具の組立くらい。しかもたいした数はない。
以前のマンションから持ち寄ったのは、それほど多くない着替えとギターが数本という身軽さだった。
もともと、物に執着心はあまりなさそうな男だけれど。


友雅は、イノリの様子をしばらく観察して言った。
彼の視線が、どこにつながっているかを見たら、何となく彼の希望は予測できた。
「内容次第だけれどね。どんなものが欲しいんだい?」
「んー…つーか、モノじゃないんだけどさ。アンタの、あのギターさぁ…ちょっとだけ、弾かせてもらっていい?」
友雅は、嫌な顔はしなかった。
「それくらいで良いなら、安い手伝い料だな。どうぞ、好きに弾いていいよ。」
そう言ってケースの中から取り出したD-45を、さっとイノリに向けて差し出した。

はじめて、手にしたD-45。
近くで友雅が弾いているのを、何度も見て来たけれど…実際に自分が手に取るのは初めてだ。こうして見ると、ボディの深い色合いが綺麗だ。
おそるおそる、指先を弦に近付けてみる。そして、軽くつま弾いてみる………。
はっきりと、普通のギターとは音が違うのがイノリにも分かった。

高い透明感のある音に聞こえるようで、重厚感がある。そして、表現出来ないような華やかさ。
何て言えばいいのだろう…美しいと感じるギターの音のすべてが、この音に集結されているような、そんな印象。
「せっかくだから、一曲弾いてご覧。壊さなければ、何曲でも構わないよ?」
友雅の言葉に甘えて、イノリは思い付くままに奏でてみる事にした。

「…へえ…そんな古い歌を、よく知っているね」
父親がギターを弾くのが好きで、コピーしているのを幼い頃から聞いていた。そのうち、自然に覚えてしまっていた。
サイモン&ガーファンクルの「Mrs.Robinson」。
だが、ワンコーラス弾き終わったイノリは、ツーコーラス目に入ったとたんに、弦から手を離してしまった。
「…やっぱダメだ。俺のテクじゃどうも様になんねーや」
苦笑いしながら、彼はそれきり弾くのを止めてしまった。

このギターを、どれほど世界中のギタリストが憧れているのか、触れてみて良く分かった。
どんなにテクニックが優れていても、このギターは演奏者を選ぶ。それだけでは、このギターの一番良い音は出せない。
自分の技量では、それは無理だと分かって、これ以上弾いているのが恥ずかしくなってしまったのだ。
「いいや。俺にはまだ早いみたい。やっぱおっさんくらいの年代じゃないと、様になんないのかもな」
「いくらなんでも、そこまで年じゃないよ、私も。」
友雅は、イノリが手放したD-45を手に取った。

「あ」
ギターを抱えて、友雅が弦を弾き出す。
さっき、イノリが弾くのを止めた「Mrs.Robinson」が、今度は彼の指先で音を奏で始めた。

"ちくしょー…。やっぱ、コイツのテク、すげえ…"
音がしっくりと馴染むのだ。まるでひとつの物体から出て来る音のように、彼の音がギターと寄り添う。
彼がこの業界で一目置かされていた理由が、だんだんと分かって来た。
この音を聞いたら、反論なんか何も出来なくなる。

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「あ、また来やがったな…」
ゼミの帰り、いつものように天真の店を訪れたあかねを見て、文句を言いながらも笑顔だけは絶やさない。
「いつもタダ聞き頂きまして、ありがとーございますー」
「こんにちはーお邪魔しまーす」
お互いに調子に乗った挨拶を交わして、あかねはお決まりのCDを手に、お決まりの席へと向かう。そしてまた、ヘッドフォンを通じてお決まりの曲を聞く。

目を閉じて、身体に溶けて行くようなギターの音に耳を傾ける。
無心を心がけて、全身に音が流れていくようにと思うのだけれど、ぼんやりと浮かんでくることがある。

…ああ、ホントになんて優しい音なんだろうなあ…。友雅さんの音みたい…うん、似てるかも。

何度も、何回も。同じ曲をリピートし続けながら同じ事を考えながら、曲を辿る。それだけで時間が過ぎていくけれど、今のあかねにとっては、ウィークデーの中で一番のリラクゼーションタイムだ。
指先でテーブルを叩き、メロディーをリズムで追いかける。ボーカルの後ろにあるのに、そのギターは深い音色でしっかりと耳で感じられる。

…もしかしたら、友雅さんの音に似てるから…こんなに気に入っちゃったのかもしれないなあ……。
独り言のようにうかぶその思いが、少し照れくさいのは数日前の記憶のせいかな、と思ってみたり。
きらめく夜景と、潮風の感じを思い出して、それと同時に彼の声も感触も浮かんでくる。

「…何やってんだ、アイツ」
レジカウンターから少しだけ首を伸ばした天真は、試聴ブースで真っ赤になってはしゃいでいるあかねを、不思議そうに見ていた。



時計は、午後4時か。小さいハートが付いた文字盤を見て、『これくらいの時間なら大丈夫』と、確信して歩き出した。
目指すは、あの公園。まずは、そこまで。
辿り着いたら、そこから最終目的地が見えるはず。10階建てのマンションが、これから目指す場所だ。
バッグの中には、シードルのミニボトルとバタースコッチを入れた紙袋が入っている。わざわざラッピング用の紙袋なんか買って、きゅっと白いリボンで結んで…これじゃまるで贈り物のようだ。

本当は友雅の忘れ物なのだけど、そのまま手渡すのは味気ないなと思ったら、こんな形に仕上がってしまった。
「やり過ぎちゃった感もあるけども、まあ…綺麗だから良いよね」
そう言い聞かせて、あかねは夕暮れの住宅街を歩いていく。
人影は長く伸び、公園にはもう子供たちの姿もない。
皆が家路へと矛先を変える時刻……あかねは彼のマンションへ向かっている。



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Megumi,Ka

suga