ムーンライトセレナーデ

 第4話
まだ、頭の中がぼんやりしている。
いつも降りるバス停よりひとつ前で下車し、少しだけ長く家までの距離を歩きたい気がした。
月が綺麗な夜だから、路上に延びる影も長く見える。

「はあ……」
色々な想いがこもったため息がこぼれる。一旦立ち止まって、目を閉じて深呼吸をした。
瞼の奥に浮かぶ、海の上から望むきらめく夜景。髪をなびかせる潮風。
夢を見ていたのではないだろうか、と思ってしまうほど幻想的な時間。
そう、いつも夢に見ていたのは、あんな場面。
情報誌やタウン誌で見かけた、憧れのデートスポット。いつかそんな機会があったなら、と思い描いていた世界が、まさかこんな形で突然訪れるなんて。
予想もしなかったサプライズ。思い出すだけで、浮かれて踊り出したくなるような夜だった。

耳を澄ますと、聞こえて来そうな…ムーンライトセレナーデ。そして、ライムの香りを思い出して、少し気恥ずかしくなる。
「あー…もう…どうしよう☆まだ、どきどきしてる…」
誰も見ていないのに、たまらなくなって顔を覆うと、頬がとても熱くなっている事に気付く。
今夜は熱帯夜と言えるほどの気温ではないのに、あかねの身体の中だけは熱中症寸前と言えるほどだ。
一度目の時だってパニックに陥ったのに、二度目のキスでも状況は全然変わらない。随分と時間が過ぎたのに、今さっきのことみたいに動揺している。


後ろから、車のヘッドライトが近付いて来た。
あかねのいる歩道にゆっくり沿いながら、手前で止まって2回クラクションが鳴る。見覚えのある、シルバーのボルボ。
「おーい!何やってんだよ、こんな時間に一人でフラフラと、物騒だなあ!」
後部座席のウインドウが開くと、中から天真が顔を出した。
運転席でハンドルを握るのは、彼の父だ。よく見てみると、助手席には天真の母、そして後ろには妹の蘭がいる。つまり、森村家全員で外出の帰りということだ。
「おまえな、少しは緊張感持って外出しろよな。こんな時間に危ないだろが。親父、あかねの家まで遠回りしてやってくんない?」
「ああ、勿論構わないよ。蘭、少し詰めてあげなさい。」
天真たちの言葉に甘えて、あかねは蘭の開けたドアの中に乗り込むことにした


「今日はね、ピアノのコンクールだったの。その帰り。」
「ああ、だからみんなで出掛けてたんだ。」
蘭から言われて、納得がいった。休日なんて、あってないようなものだと天真の父はいつも言っているが、日曜日に家族揃って出掛けられるなんて、珍しいと思ったのだ。
さすがに、娘の晴れ舞台は疎かには出来ないということだろう。
「それで、出来映えはどうだった?」
「うーん…ちょっと今回は難しい選曲しちゃったけど、ま、自分としてはよく出来た方かな。」
パールピンクの唇で、蘭はそう答えて笑った。

「ね、それよりもあかねちゃんは、どうしてこんな時間まで出掛けてたの?」
少しきつい後部座席で、蘭が隣のあかねを覗き込みながら尋ねた。
「あ、もしかしてデートだったりして〜?」
「えっ…!?そ、そんなことないよ…別に」
一瞬ドキッとしたが、慌ててごまかす。でも、同年代の女の子は人一倍恋愛に関しては敏感なので、結構しつこく迫って来たりするものだ。
「ウッソだー。友達同士で出掛けるカッコじゃないでしょ。こんなにオシャレしちゃって!」
友雅に貰ったレモン色のパシュミナを、軽くつまんで蘭が悪びれもせず詰め寄ってくる。
やっぱり、他人が見たらデートスタイルに見えるんだろうか。
「ち、違うってば!」
どう弁解しても、多分信じてもらえそうにないだろうけれど…。ホントの所、デートには違いないのだし。

「オイ、それって例の…あんときのヤツ?」
女の子同士の賑やかな会話の中に、天真が口を挟んだ。
すると、蘭の目があかねから天真へと移る。
「あのときって?お兄ちゃん、もしかして知ってるの?あかねちゃんの彼氏」
興味津々の蘭は、目を輝かせて天真を詮索しようとしている。
そういえば、友雅の部屋に泊まることになってしまった時、口止めを頼んだのは天真だったから……。
「ああ、実は前にさあ、突然夜に電話が来て……」
「きゃーっ!ダメ!それ以上は言っちゃダメー!」
慌ててあかねは蘭の身体を押しのけて、天真の口を塞ごうと手を伸ばした。
「口止めだって言ったじゃない!だったら言わないでよー!」
真っ赤な顔で、あかねが叫ぶ。

「良いじゃないか。年頃の女の子なら、彼氏のことが気になるものだよ。」
後部座席の賑やかな光景を、バックミラー越しに眺めていた天真たちの父が、笑いながらそう言った。
その隣で後ろを振り向いた彼らの母も、微笑ましそうに3人の様子を眺めていた。

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ベッドに入る前に、何度も何度もパシュミナを丁寧に畳む。そして、ブローチをしっかりと磨いてケースに収める。
どちらも彼からもらった、大切な宝物だ。傷めることだけは絶対にしたくない。
なめらかな肌触りのパシュミナに頬を当てて、あかねはちょっとした幸せを感じていた。
「あ、そうだ…明日のゼミの用意しなくちゃ。」
カレンダーを見て、とたんに現実に戻された。
「えーと、明日持って行くのは古典のテスト問題と、あとは…明日提出の英文翻訳と……」
いくつかの宿題と、いつもの筆記用具は既にゼミ用のバッグに入っている。
あとは、女の子の身だしなみ用の小物も忘れてはならない。それは、さっきまで使っていたバッグの中身と兼用。

デート用のバッグを取り上げて、中からポーチを取り出そうとした時、そこに入っていたものを見て、あかねは「あっ」と声を出した。
「忘れちゃった…友雅さんのシードル、渡すの…」
輸入食料品店で、喉が渇いたら飲もうと思って買ったのだった。
あかねはミネラルウォーターだったが、彼が買ったのはシードルのミニボトル。輸入物で、ラベルを見ると意外にアルコール度数が高い。
「どうしよう…。」
見慣れないアルコールのボトルなんて、持っているのを見つかったらきっと母に問いつめられるだろうな、と予測出来る。
だからって、こっそり飲んでしまおうなんて出来ないし、捨ててしまうなんてもっと出来ない。

来週、会う時に持って行こうか……。
と、あかねは今日友雅が言った言葉を、唐突に思い出した。

『また今度、私の部屋に遊びにおいで』

「でっ…でも、それはやっぱりっ…!」
頭をぶるぶる震わせて、風呂上がりのせいでなはい頬の熱さをごまかす。
ひとり暮らしの男性の部屋に、女の子が一人で訪ねて行くなんて…それはやっぱりちょっと……マズイ…とは思うのだ…けど。
「でも…管理人さん…いたよ…ね、確か…」
マンションの1階には、日中なら管理人がいたはずだ。例えいなくとも、同じマンション内に自宅があるから、いつでも呼び出しは効くと友雅が言っていたし。
それなら…管理人に預けておけば、きっと友雅に渡してもらえるはずだ。
どっちみち、昼間は彼は仕事で居ないだろうし。
「そ、それならおかしくないよね!居ない時を見計らって行くんだもん!別に下心なんて……」

"下心”などという言葉を自発的に吐いたあと、友雅がからかうように言った戯言がいくつも浮かんで、頭がショートしそうになった。
「……は、早く寝よ…」
手早く電気を消して、あかねはベッドの中に潜り込んだ。
だからって、気持ちが高揚しているうちは、寝付けるわけもないのだけれど。

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「ああ、今見ているよ。どちらも設備には問題のない物件だから、一度見せてもらおうかな。」
ホテルに戻ると、不動産屋からのFAXをスタッフから渡された。
先週、新しい物件を探してもらっていたが、どうやらそれに見合う所が見つかったようだ。
図面と書類を見ながら、友雅は直接責任者の携帯へと電話をかけた。これまで何度か転居先を世話してもらっている、信頼の出来る不動産屋だ。個人情報に関しては、一切手抜きがない。
だからこそ、友雅のような人間には有り難い。
「じゃあ、そうだな…出来るだけ早い方が良いから、明日か明後日には見せてもらうよ。そして、その場で即決するから、あとは引っ越し手続きなども頼むよ。」
コンパクトなケトルが、吹きこぼれそうになる寸前で止めて、同時に受話器を置いた。

とにかく、早めに部屋を引き払わなければ。いつ、足がついて居所を掴まれるか、分かったもんじゃない。
そういうことには用意周到な彼女たちだから、油断は出来ないのだ。
「早く、のんびりと月でも眺められるところで、ゆっくりと暮らしてみたいものだねえ…」
ガラス窓の向こう。ビルとビルの谷間から、今宵の月が少しだけ望む。
枕元に置かれた、Martin D-45を手に取った友雅は、静かにその弦を弾く。

今日を過ごした彼女に、聞こえるようにと…そんな気持ちで奏でる、"ムーンライトセレナーデ"。




-----THE END----


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Megumi,Ka

suga