ムーンライトセレナーデ

 第3話
ほんの2時間程度のクルージングは、あっという間の時間だったのか、それとも長かったのか。
十分過ぎるほどの景色は堪能出来たけれど、もう少し乗っていたいような気もしないでもない。
その証拠に、下船する時は少し名残惜しかったが、『今度はランチかティータイムにでも』と話しながら、次の機会を期待して海上から地上へと降りた。

「早い時間に乗ったから、まだ7時過ぎたくらいだ。普通なら、これから食事に行く時間だね。」
本当のディナータイムは7時から。しかし、2時間の航路を考えると、下船するのは9時を過ぎる。
夏休みだからこそ、17〜8才の彼女が出歩くのは少し物騒な時間帯だ。そのつもりで、一つ前の航路時間を選んだのだが、そうなると今度は降りたあとの時間が少し余る。

「あまり遅くまでは連れ回せないからねえ。9時前には帰してあげようと思っても、中途半端に時間が残っているね…」
昼間ならお茶くらいで潰せる時間も、夜にはそんな店さえ少なくなる。殆どがバーやラウンジタイムに変わり、未成年の彼女を連れて歩ける場所は意外に限られて来てしまう。
「あのー…友雅さん、さっきお酒飲んでましたよね。酔い、覚まさなくて大丈夫ですか?」
普段から、酒を口にする姿は何度も見ているが、今回は船の上だったので酔いも結構回りやすいんじゃないか、とあかねは思った。
「酔うほど強いものは飲んでいないよ。軽めのカクテル二杯程度ならね。」
と言いつつ、両方ともウォッカベースのものであったので、一般的には比較的度数が高いのかもしれないが、これくらいなら充分素面で過ごせる。

「でも、丁度夜になってから気温も落ち着いたし…夕涼みでもしながら、改めて昼間の散歩コースでも歩いてみようか。」
海の上から眺める景色も良いが、行き場を求めて人々が移動してしまったあとの、閑散とした臨海公園の風情もなかなか良い、

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海上に浮かぶ船のイルミネーションや、乗船ゲートの明かりが少し漏れてはいるものの、夜の水平線はどこまでも暗黒に近い。
吹いて来る潮風の涼しさだけが、そんな不安定さのある色合いを打ち消してくれている。

「明日から、またお仕事ですか?」
海沿いのベンチに腰を下ろして、隣にいる友雅に尋ねる。
「そうだね。佳境に差し掛かっているんだけれど、そういう時期に限って手こずるものなんだ。でも、クライマックスこそ手抜きは厳禁だからね。せっかくこれまでやってきた作業も、台無しになってしまう可能性もある。」
「大変なんですねえ…音楽のお仕事って。友雅さんから見たら、私なんかただ気楽に聞いているだけですから、いい気なもんですよねえ…」
天真の父が業界で苦労しているのは、色々と聞いた事は有るけれど、直接音を作るクリエーターとはまた苦労は違うのだろう。
話を聞いているだけでも、音を作ることには真摯的な意識を持つ友雅だから、尚更に面倒なことも多そうだ。

「でも、頑張らないとね。今日教えてくれたバンドみたいに、君に気に入られるようなものを作らないと。」
「私、言ったじゃないですかー。友雅さんの音の方が好きだって。きっと気に入らないはずないです。」
音楽には素人でしかない彼女の、断言とも言える強い言葉が胸を熱くさせる。
「出来上がったら聞かせて下さいね。」
「…分かった。本腰を入れて頑張ってみるよ。」
近いうちに、本当の事を彼女は知るだろう。
その時、どんな顔をして驚くだろうか。そして自分は、彼女に何と言おう?
あかねの事を絡ませて考える想像は、いつも和やかで暖かい。

「そういえば……さっきの話だけれど、即席の楽器があったことに気付いたよ。」
レモン色の月を眺めながら、友雅が何かを思いついたようだ。
「え、『ムーンライトセレナーデ』の事ですか?」
「そう。ギターがあれば完璧だけれど、そうも行かないし。歌は専門じゃないから鼻歌もちょっとね。そうなったら…何もなくても演奏出来るものと言えば、これくらいしかないけど、何もないよりは良いかなと思ってね。」
友雅は、少し深く夜風を吸った。

ゆっくりと唇から息を吐き出すと、透明な音が流れ出す。
彼の口笛が、メロディーを刻む。それは、どこか懐かしくて深みのある、今でも色褪せない音。
「あ!知ってます、その曲!」
しっかり聞いた事はないけれど、この曲なら覚えている。テレビかCFか、それとも誰かがカヴァーした曲を聴いたのか、そこまでは覚えていないがメロディーなら。
タイトルなんて気にしていなかったから、今まで思い出せなかったけれど、今度はもう忘れない。
耳元で流れる口笛のメロディーと、うってつけの月明かりが、一つのシーンとして繋がって行くから。

「そっか…知らなかった。この曲が『ムーンライトセレナーデ』って言う………」
口笛が止んだあと、改めて納得しながらあかねが顔を上げた。すると、驚くほどの至近距離に彼の瞳があった。
ライムのような香りは、さっき飲んだソーダ?それとも、友雅が飲んでいたモスコミュールのせい?
だけど、重ねた唇から伝ったのは、グレープフルーツの味わい。
少し苦みのあるそれは、あの日のエスプレッソの香りを思い起こさせた。


「アルコールの匂いは迷惑だったかな」
唇が離されて、彼の声にゆっくりと閉じた瞼を開ける。街灯の薄暗い明かりのせいで、はっきりと顔が見えないのが不幸中の幸い。
煌煌とした中では、恥ずかしくて彼を直視出来ない。
「こんなことならば、ノンアルコールを選べば良かったな…」
苦笑いをしながら、友雅は髪を掻きあげた。
行動の予測は不可能。引き込むのは簡単に出来るけれど、感情が自然に動き出す時は予定外の事が起こりうる。
「後味悪いキスじゃムードも半減してしまうね。申し訳ない。」
「そ、それほど…気にならなかったですよっ…」
アルコールよりも、柑橘系の後味。香りはライム、味はグレープフルーツ。合わせてみたらレモンに近い。
……ファーストキスはレモンの味がする、なんて言葉が突如浮かんで、思わず手で顔を覆ってしまいたくなる。
そんなあかねの顎に指を添えて、もう一度友雅の顔が近付く。

「風味まで判断出来るようになったのは、一歩前進した証拠かな?もう慣れた?」
「な、な、慣れてなんかっ」
勿論慣れたはずはないけれど(そもそも、これが生涯でやっと二度目だというのに)、だからって以前みたいに大混乱をあからさまにするのも、成長がないみたいで少し悔しい。
でも……顔を逸らせないように顎を押さえられて、彼から目を離せない。
そうしているうちに、意識もしないのに身体が熱くなる。

瞳の中が、波打つ水面のように潤み、揺れる。花びらのような、小さな唇が小刻みに震えている。
何かを耐えているかのように唇を噛み締め、それでいて真っすぐに延びる視線は、ビルの夜景よりも輝いて見えて。
「可愛いね、君は。」
あかねの顎を抑えていた手が動いて、頭をそっと軽く撫でた。
まるで子どもをあやすような仕草に、少し拗ねてみせようかと思ったのだが、すぐに彼の手はあかねの背中に回されて、彼女を身体ごと抱き寄せる。
シャツの襟元から、香るフレグランス。
さっきよりも近くに感じる、ライムの香りの正体がようやく分かった。

「でも、そんな君の顔を見ることが出来る日曜日があるから、何とか一週間を生きて来られるよ。」
目的があるだけで、それに向けて新しい朝を迎えることが出来る。最近になって、そんなことを知った。
日曜日の約束を続けるようになってから、だ。
別れても、次の日曜に会えるという確信が力になる。

-------------All you Need is Love。
愛こそすべて、と唱えたのはビートルズだった。
まだ、そんな言葉を言うには早すぎるかもしれないが、少なくともそれに限りなく近い感情が、小さいけれどそこにあった。

実際に口にはしないけれど、胸の中でその言葉を口にしてみる。腕の中に閉じ込めた、彼女を少し緩めに抱きしめたままで。
そしてまた、気まぐれに口笛を吹いてみる。


月明かりの下で、潮風と波の音に交じったムーンライトセレナーデが聞こえる。
少しかすれた音で。
澄んだ口笛の音で。




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Megumi,Ka

suga