ムーンライトセレナーデ

 第2話
「いらっしゃいませ。ご予約はお済みでらっしゃいますか?」
「いや、これからなのだけれど…まだ間に合うかな?5時出航が良いんだが。」
連れて来られたその場所は、客船ターミナルのロビーだった。
海に面した大きな窓から望むのは、暮れ行く夕暮れの景色と、ライトアップされ始めているクルーズ船。
デートコースとして、クリスマス近くになると見かけるナイトクルージング。そう言った話題で必ず登場するのが、この船だ。
あかねは友雅の隣で、カウンターの女性スタッフが差し出したパンフレットを覗き込んだ。

「友雅さん!これはダメ!絶対にそーいうのはダメです!」
目に入った料金表に記されているのは、殆どが7000円以上のコース料理。一番高いものは、30000円近い。
これに乗船料が別途プラスとなると…選び方よってはとんでもない値段になってしまう。
「今更遠慮することはないよ。今までも、それくらいご馳走してきたんだし。」
「でも!でも…いくらなんでも、これはダメです!昼間、そう言ったじゃないですかっ!」
いつもご馳走してもらってるからこそ、こうして目の当たりに料金が見えてしまったら、とても気楽に食事を楽しむなんて出来ない。
彼にとっては、たいしたことのない価格かもしれないが、一般的な中流家庭のあかねにとって、さっきまでハラハラしていたホテルのディナーと同じくらい、異空間の別世界だ。

「しょうがないな。申し訳ないが…この姫君は結構頑固なようでね。取り敢えず、乗船チケットのみで予約頼めるかな?」
「はい、承知致しました。では、大人お二人様乗船チケットのみということで。」
女性スタッフがくすくすと笑っているのを見て、あまりにムキになってしまった自分が少しだけ恥ずかしくなったが、そんなあかねの肩にそっと友雅の手が伸びた。
肩を抱かれた姿を、微笑ましそうにスタッフに再び見られて、今度は別の意味で少し恥ずかしくなった。

+++++

暮れ行く都会の景色と、海に沈む夕日の姿は珍しくないが、こうして海上から眺めるのは今日が初めてだった。
思ったよりもゆっくりと進む船は、少しずつ航路が動くたびに見える景色を変えて行く。

「すっごーい…。どっち向いてもオレンジ色に空が染まってる!」
サンデッキから身を乗り出して、進行方向を見たり、後ろを見たりとキョロキョロしているあかねを、友雅はモスコミュールのグラスを片手に、眺めていた。
「お姫様のオーダーが届いたよ。テーブルに着いても景色は眺められるのだから、そろそろこっちに降りておいで。」
振り返ると、フロアスタッフがあかねの頼んだメニューを、既にテーブルの上にセットして立ち去ろうとしていた。
バレンシアオレンジの100%ジュースと、イタリアンのセットメニュー。イベント中で、二つ合わせても3000円行かないような値段だが、ボリューム的には充分。

席に着くと、向かい側に見える船内のレストランから明るい光が漏れている。中にいるカップルらしき男女達は、バイキングやコース料理を楽しんでいるようだ。
「あ、そうか。コース料理とかで予約すると、船内のレストランで食べるようになるんだ…」
「そうだよ。あちらの方が色々好きなものを選べるから良いかな、と思ったのだけどねえ。」
「いいんです。あんなきらびやかなの、柄じゃないですもん。」
ロマンチックなグラスの輝きや、優雅な音楽の流れる店内、銀色の食器。キャンドルの明かりは魅力的だけれど、そんなものより潮風を感じながら味わう、カジュアルなスタイルの方が気楽で良い。
「ま、確かにね。堅苦しいのはマイナスかな。でも、こちらも景色はなかなか良いだろう?」
「なかなかどころじゃないですよっ!もう、すっごい綺麗!夢見てるみたい!」
生き生きして感激を露にする彼女を見ながら、レストランなんて気取った雰囲気は、まだ彼女には早すぎるか、と友雅は感じた。
自由に周囲を見渡すことの出来る、その素直な瞳の行方を遮るのは可哀想だ。


時間と共に航路は進み、夕暮れは深い闇に押し出されて、天上には月の浮かび上がる夜空が広がる。
辺りが暗くなればなるほど、ビルやホテルなどの人工的な明かりが浮き上がって見えた。
「大人しくなったね。」
メインディッシュを終えたあと、あかねの目は海の方をずっと眺めていて、グラスの中の氷が溶けてしまっているのも気付かない。
頬杖をついて、風に髪を揺らして、白いデッキチェアに腰を下ろしてぼんやりとしている。
「……なんか…景色がどんどん変わって行っちゃうから、目を離してたら勿体ない気がして。」
こんなところから、夜景を見る機会なんて滅多に無い。だから、一瞬でも綺麗な景色を忘れずに焼き付けておきたい。
宝石箱をひっくり返したような、きらめく明かり達の結晶。ずっとそこにあるものが、ここからは違って見える。

「もう少し、月に近いところに移動してみようか」
「月に近いところ?ここより、もっと高いところってことですか?」
「そう。ほんの少しだけね。」
席から立ち上がった二人は、カウンターでそれぞれ新しいドリンクをオーダーしてから、グラスを片手に細い階段をゆっくりと上がって行った。


「あ、すごい。ここって、さっきのサンデッキの上なんですね。」
レストルームのない一番上の甲板のデッキは、煙突が近いのとオーダーカウンターがないせいで、下よりも薄暗くて人もいない。
その代わり、頭上を遮る者が全くないので、360度が海。そして天には月明かりがそのまま降り注ぐ。
「こうして見ると、月に手が届きそうな感じがしますね」
「手は届かないけれど、飲み干すことは出来るかもしれないよ?」
彼の指先が指した、カクテルとライムソーダのグラスの中には、少し歪んだ月が映っていた。

「二人きりで過ごすのには静かな方が良いけれど、こんな風に月が綺麗な夜は、ちょっとしたBGMがあってもいいな、と思うね。」
「BGMですかー…。歌とか入っていないのが良いかなー…」
クラシック、ジャズ、フュージョン、映画のサントラなども含まれるか。
それほど詳しい知識はないけれど、冷たいソーダで舌を濡らしながら考えてみる。

「あ、『ムーンリバー』なんて、どうでしょう?」
「『ティファニーで朝食を』か。随分昔の映画だけれど、よく知っていたね。」
おそらく彼女くらいの年頃は、妖精のようなヘプバーンの姿に、一度は憧れを持つのだろう。友雅はと言えば、幼い頃に母が見ていたのを、何度か眺めていたくらいだが。
「歌詞は良いんだけれど、『River』じゃなくて『Sea』だからね、ここは。」
「あ、そうか…」
他愛も無い、ただの雑談でしかない。
豪勢なオードブルも無く、飲みかけのグラスを挟んで、月明かりの下で交わす宛のない会話。
このまま、ずっとこうして夜の海を漂い続けながら、朝が来るまで話していられたら楽しいだろう、と、そんな事を思ったりする。

「『ムーンライトセレナーデ』なんかは、どうかな。ジャズのスタンダードナンバーだけど。」
あかねはタイトルを復唱しながら、自分の中に刻まれてるありとあらゆる知識を使って、その曲を思い出そうとした。
"ムーンライトセレナーデ"……聞いたことのある曲名ではあるのだけれど、どんなメロディーだったかというと…どうもはっきりと浮かんでこない。
「分からないかな、君くらいの年頃の子は」
「…曲名は分かるんですけど、うーん…聞けば、分かると思うんですけど…」
聞いたことのない人は、少ないだろうと思うほど有名な曲だ。
彼女みたいに若い世代でも分かるように、アレンジを加えながらこの曲を伝え続けるアーティストは後を絶たない。
「メロディーか…。ギターでもあればね、この場で弾いてあげられるんだけど。」
生憎、そんなものはどこにもない。


「おかしなものだね。何だか、君と会うときはいつもこんな感じで、ギターを持っていないことを後悔することが多いな。」
二人がはじめて出会った時のことが、どこかで尾を引いているんだろうか。
「突然メロディーが浮かんだり、無性に君の音を奏でたくなったり、今日もギターさえあればBGMくらい聞かせてあげられたのにね。」

友雅がそうつぶやいて、あかねはこれまでの事を思い出した。
ひょんなことで彼の部屋に泊まった夜、子守歌のように聞こえていた彼の奏でる音。
そして、あかねの音を奏でたいと言ったのは…あの日。彼が昔住んでいたという、古びた屋敷でのこと。
その日はじめてあかねは、友雅と………。思い出したら、口の中のソーダが妙に刺激的に感じてくる。

「また今度、私の部屋に遊びにおいで」
タイミングを狙っていたかのように、友雅がそんなことを言ったので、思わずソーダを吹き出しそうになった。ただでさえ、口の中が痺れているのに。
「で、でもほら、あの…森林公園とか?そういうところでギター持って行って、外で弾くのも気持ちいいと思いませんっ!?」
激しく揺らいだ鼓動を隠すように、思いつきで提案を口にしてみたが、彼の瞳は月明かりのように優しく、あかねの事を見つめている。
「他の人にはね、あまり聞かせたくないんだ。君にしか聞かせたくない……って、何故かね、そんな気がするんだよ。」
二人きりでいられるから、何かが働く。いつもとは違うものが、芽吹き始める。
それは音であり、または感情。日常では起こりえないような、特別な経験。

「だから、気軽に遊びに来ると良いよ。悪さはしないって、最初の夜に立証してるだろう?」
指先でグラスの縁を彩る塩を舐め取り、少しだけ悪戯っぽい笑い方をしながら彼が言う。
「それとも、悪さをされた方が良いかい?」
「ま、ま、また…どーしてそんなこと言うんですかっ!!」
思わず立ち上がって身を乗り出す彼女は、暗い夜の中でも分かるほど顔が赤くて、うっすらと頬が汗ばんで火照っているのが分かった。
「冗談だよ」
笑いながら、彼が指先を唇に押しつけた。
塩の粒が少しだけ口に入って、海水を舐めたように塩辛かった。



***********

Megumi,Ka

suga