ムーンライトセレナーデ

 第1話
視聴ブースは個別に区切られていて、ガラスドアには半分だけスモークが貼られている。
それに加えて、一番奥のブースを選んだこともあって、前を通る人がいないので覗かれる事は殆どない。
だけど…それでも、この広いとは言えない密室空間の中で、彼の腕に抱きしめられていると、胸が爆発しそうになる。

会話する言葉も無いから、今友雅が何を考えているかも分からなくて。
だから余計に、この腕の意味が伝えようとしていることが、あかねには見えない。
ほんの少しの不安と、妙な期待のような感情とが入り交じって、全身を鼓動が駆け巡り出す。


「あ、あのっ……」
自分の腕の中で、小さく強張らせているあかねの身体に気付いた。
波のように打ち寄せて来た衝動に流されて、つい無意識のうちに彼女を抱きしめてしまっていた。
彼女が、その音を受け止めてくれたという偶然の事実が、言葉にできないくらい胸に詰まって。
「ああ、悪かった。いきなり驚かせてしまったね。」
「えっ…ま、あの…ちょっとびっくりしただけですけど……」
コードが抜けて、足下に転がり落ちているヘッドフォンに手を伸ばそうとすると、先にそれを友雅が拾い上げた。
曲は、すでに演奏を終えている。


「君は、良い審美眼を持っているね。」
イジェクトボタンを押してCDを取り出し、ケースに戻しながら、友雅が言った。
「耳が良いのかな。音楽を聞くのに一番大切なところを、しっかり踏まえているみたいだ。」
「そんな…。別に、そんな専門的なことなんて、全然わかんないですよ。ただ、好きな曲を聞くのが好き、っていう…単純なことで…」
パタン、とCDを入れたケースが、彼の手の中で閉じた。
たった一枚の、薄っぺらいCDがカウンターテーブルの上に置かれて、友雅はあかねの顔を見る。
「いや、それが一番大切だと思うよ。売れているから、とか、歌い手が人着があるから、とか、又はタイアップだから…とか。そんな風に今のヒット曲は生まれて来るものだけれど、それらはいわば、一番信用出来ないものだと思わないかい?」
つい、本音が出てしまった。あかねのような、普通の女の子には難しい例えかな、と後から少し思った。
しかし、自分の音に惹かれてくれた彼女には、本心を告げたいという気がした。


「マスコミが広告費をかければ、いくらでも情報は操作できる。100のメディアが揃って"売れている"と言えば、それだけで良いんだよ。そうすれば、聴衆の興味が流れて行くだろう?となれば、誰もがこぞって飛び着くようになる。」

彼の話を聞きながら、何だかシビアな業界の話だな…とあかねは思った。
だけど…そういわれてみれば、そんな風に感じるのも事実で。
これまであかね自身も、店頭やテレビなどのメディアの評判によって、手に取る曲を選んだのが殆どだ。
きっと彼は、実際にその世界で生きているからこそ、肌でそれを実感しているのかもしれない。
「そういうわけで、ヒット曲なんて簡単に作れるんだ。でもね、曲を作る立場としたら、そんな風にその場の空気に流されて、すぐに消えて忘れられてしまうなんていうのは…気持ちのいいものじゃないよ。」
音楽を生活の糧にして生きるようになってから、数えきれないほどそんな作品を見て来た。
そんな光景を遠目に見つつ、いつのまにか業界に嫌悪感を抱くようになって、それから友雅は、仕事選びに異常なまで慎重になっていた。
商業というよりも、道楽。自分の直感だけを頼りにしてきた。
かろうじて、その直感は外れたことはないのが幸いだけれど。

「制作行程は人それぞれだけど、良いと思ったものを生み出すのだから。一曲であっても思い入れは深いものだ。私なら、その場限りのヒット曲よりも、本当にその曲を本心で感じてくれる人に、『好きだ』と言ってもらえる方が嬉しいね。」
"だから私みたいな人間は、パッとしない仕事しか出来ないんだけれどね"と、友雅は自分を自嘲するように言って笑った。

確かに、彼の名前をこれまで聞いた事はないけれど…でも、そんなに陰に潜むような人間だろうか?と、あかねは疑問に思う。
こんなに音楽に真剣で、真正面からしっかりと全体を見る力を持っていて、何よりも…あんなに優しい音を生み出すことが出来るのに。
出会ったときから、そう思っていた。
……こんな綺麗な音を出せる人がいるなんて……と。
技術が凄いとか、そんな単純なことではなくて。彼の指先が弾く弦から、沸き上がる音はゆっくりと水面に輪を描くように広がって、静かに胸の奥へと沈んで行く。
そして、そこにある本心に触れて、同化する。

------その人のイメージを演奏するのさ。
あの日、はじめて会った日に彼はそう言って、あかねの音をその場で奏でた。まさに、それは自分の心境そのものだった。
それから、何度となく彼はあかねの音を奏でてくれたけれど、一度だって外れたことがない。いつだって、彼はあかねの現状を音で表現することが出来る。
こんな不思議な力を持つ彼こそ、業界は黙っていないような気がするのだが…。


「というわけで、同じ業界人として羨ましいよ。この…グループがね。そこまで素直に、君に気に入ってもらえるなんてね。」
置かれているCDケースを、もう一度取り上げて眺める。
今回も、直感だけで承諾してしまった仕事だった。
最初のうちは、こんな仕事がまとまるんだろうか…と自分の選択を間違えたかと思ったが、回を重ねて行くうちにそれが正解だったと分かった。
イノリたちの音が完成されて行き、友雅の理想に近付いて行っていること。彼らとの意思の疎通がスムーズになってきた事。
そして何よりも……こうして、予備知識も何も無い状態で、自分の音を気に入ったと言ってくれる彼女に出会えた事。
冗談で『運命』なんて言葉を使ったことがあるけれど、今はそれを少しくらい信じても良いと思っている。
「私も、君に気に入ってもらえるように、これからは少し気合いを入れて仕事をしてみようかな。」
笑いながら、そう言ってみる。勿論、半分ふざけて言ったつもりだった。
するとあかねは、身を乗り出して友雅を真っすぐ見た。
「あっ!で、でも私、友雅さんの音は大好きですよ!」
小さなカラーストーンのスウィングが、耳元できらきらと輝く。その光は、彼女の瞳の輝きに似ている。
「ものすごく、このバンドのこと褒めちゃいましたけど…でも、私は友雅さんの音の方が好きだし!」

あかねがそう言って一拍の時間を置いてから、突然友雅が声を上げて笑った。
「な、なんですか?わたし…変なこと言いましたっ?」
「いや…そうじゃなくてね。……ん、まあ、何でもないよ。」
それ以上は、どうにも説明出来ない。
「そんな風に笑うなんて、何でもないはずないじゃないですかー!」
少し不機嫌そうにあかねは言い返すけれど、それでも笑いが止まらない。
友雅の音の方が好きだ、なんて力いっぱい豪語していながら、実は同じ音を『好きだ』と言っているのに気付かない。
結局の所、彼女が好きという二つの音は……どっちにしたって彼の音なのだ。
そう思ったら妙におかしくて、でもそれ以上に嬉しくて。
………音楽で生きるようになってから、こんな気持ちになったのは初めてだ。

「嬉しいよ、そういう風に言ってくれて。」
笑いながらも、友雅はあかねを見ながらそう言った。
「滅多に誉められることなんて、ないものだからね。せっかく賛美してくれたのに、つい笑ってしまって申し訳なかった。」
「別に、怒ったわけじゃないですよ…。」
それは嘘偽りない本心だったし。
このバンドに出会うまで、心から好きな音と言えたのは、友雅の音。ただそれだけだったのは真実。


「今、何時くらいになるかな……」
友雅はシャツの袖を上げて、腕時計の文字盤を見た。アンティーク調の、年期が入っていそうなアナログウォッチだ。
指している時刻は、午後3時半。
「ちょっとまだ早いかな。でも、まあ早めに行けば、ゆっくり夕日を楽しめるかもしれない。」
独り言のように言った友雅は、再び袖を下ろして椅子から立ち上がった。

「さ、そろそろ行こう。」
「え?どこに行くんですか?これから…」
差し伸べられた手につかまって、あかねも立ち上がる。
「少し早いけれど、ディナーの予約に行こう。さっきの賛美のお礼に、良い景色を眺められる特等席のある所へ連れて行ってあげるよ。」

ドアを開けてブースから外に出ると、どこでも聞くような有り触れたヒット曲が、延々と流れていた。
あの曲を聴いたあとは、いつも夢から現実に戻されたような感じがする。
ずっと夢の中に浸っていられたらいいのに、と思いながら、あかねはCDを元の場所に戻して店を出た。

+++++

日が落ちて来たせいで、日中のような暑さのピークは過ぎ去っていた。
もちろんまだまだ涼しいとは言えないが、海風が吹くこの場所は心地良さを感じられる。
再び、あかねは臨海公園にやって来ていた。
友雅の後を着いて行きながら、何度か行先を尋ねてみたけれどごまかされてしまって、結局のところこれからどこに行くのか分からない。

"良い景色の眺められる特等席"でディナーなんて、まさかあの、海側に突き出して立ち並ぶ高級ホテルのレストラン…だなんて言うんじゃ…。
そういう場所には手慣れていそうな友雅だけど、あかねには全くそれこそ別世界である。
だからって、そんなところに連れて行かれても…正直困る。ドレスコードだって考えていないし、覚えているテーブルマナーだって微妙なものだし。

ああ、どうかそういうところじゃありませんように。
などと考えながら歩いていると、あっさりと彼はホテルの前を通過して行った。
…良かった。どうやら、そんなセレブ空間に連れて行かれるわけじゃなさそうだ。
だが、そうなると他に考えられるとしたら…どこだろう?



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Megumi,Ka

suga