Landmark

 第1話
枕元の電話が鳴り出したのは、まだ友雅がベッドから這い上がれない頃だった。
とは言っても、すでに世の中は午前9時を指している時間。目覚めているのが当然なのだから、文句を言う訳にもいかない。
『橘様、森村様よりお電話が入っておりますので、おつなぎ致します』
機械的なフロントスタッフの声のあと、落ち着いた紳士の声が聞こえて来た。
ゆっくりと目を開けてみるが、カーテンで遮光されているせいで、視覚的な刺激は特に感じられない。

「おはようございます。まだお休みでいらっしゃいましたか?」
「…まあね。少し昨日は深酒したせいかな。身体が重くてね……」
等と言いつつも、酔うほど飲んだわけじゃない。寝酒よりも少し多めに口にしただけだが、それが意外に身体には心地良くて、かえって熟睡してしまったくらいだ。
森村は、"お邪魔しまして、申し訳有りません"、と断りを入れてから、再び話を始めた。

『実は本日の予定なのですが、午後からライブリハーサルというのはお話ししていたと思うのですが、公演日も近いということで少々時間を多めに取りたいと言われまして』
イノリ達のグループは、インディーズで人気を博している。
現在も各地でのライブ活動がメインであるため、レコーディングの他にステージのリハーサルや打ち合わせなども欠かす事が出来ない。
「…すると、スタジオ入りは何時くらいになる予定ですかね?」
『そうですねえ…多分、夜でしょうね。少なくとも、7時以降になってしまうかと思うのですが。』

アラーム時計の液晶画面に映る数字は、AM9:20。それからPM7:00……まるまる一日が白紙ということになる。
「別に、私は構いませんよ。夜に動く方が性に合っていますしね。」
そう答えてみたが、では、今日一日何をして過ごせばいいか?
意外にも熟睡出来たおかげで、睡魔は全く身体の中から抜けてしまったし、一時的な借り物であるこの部屋にいても退屈なだけだ。
不動産屋から物件の連絡でもあれば、見学に出掛ける事も出来るだろうが…昨日の今日では見込みが薄い。

「そうか。こういう時に携帯があると便利ってわけか…」
『え?携帯がどうかしましたか?』
受話器の向こうにいる森村は、友雅の独り言の意味を理解出来ていない様子だった。
せめて、電話番号くらい聞いておけば良かったかもしれない、と思った。
そうすれば、こちらから連絡くらい取れたのだ。
昨日、あれだけ予定をめちゃくちゃにしてしまったのだし、こうして一日がフリーになるなら埋め合わせでもしてやれたが……。

などと考えたあと、向こうにも予定があるだろうし、そう勝手な事も言っていられないかな、と自分を嗜めた。
そういや受験生だと言っていたし、夏期講習などで平日は忙しいだろう。予定外のところで遊びに連れ出すなんて、非常識かもしれない、と友雅は思い直した。
『あの…橘さん、それでは本日は7:00頃にスタジオで、ということで宜しいですか?』
森村はもう一度念を押したが、友雅はまだ今日の予定が決まっていない。
さあ、どうやって時間を潰そうか……。一番手っ取り早い予定を探してみよう。

「リハーサルは、関係者以外立ち入り禁止かな?」
『えっ?はあ…それはまあ、勿論そうですけれども……』
「それじゃ、私は関係者だろうか?」
いきなり何を言い出すかと思えば、イノリ達のリハーサルを見に行きたい、という事だろうか。
友雅がそう言うのなら、問答無用で見学させることは容易いのだが、突然何故そんなことを思い付いたのだろう。
そんな森村からの問いに対して、彼は"社会見学みたいなものだよ"と、一言で答えた。

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ライブハウス『ADVANCING COLOR』は、80年代に誕生した。
ジャンルを問わない音楽をモットーとし、これまでに数々のバンドがここからデビューして行ったという経歴を持つ。
それ故に、プロを目指すアマチュアにとっては、憧れの場所でもあった。

「Red Butterfly」がこのステージに立ったのは、2年程前の事。"リードボーカルが現役高校生!"の肩書きも手伝って、若い客層にはかなりウケが良かったが、ライブを重ねて行くうちに演奏技術も磨き上げられ、ファン層も幅広くなって行った。
自作のオリジナル曲もインディーズレーベルで上位を占め、音楽会社の目に止まったのが1年程前。今やメジャーデビューも目前だ。

「でもさ、この曲順でシングル曲をここに入れるのって、ちょっと早過ぎねえ?。いっそアンコールでさ、デビューについてMC挟んでからの方がさあ?」
昼間のライブハウスは、まるで寝静まっているかのように薄暗い。夜になれば一斉に熱気が弾ける空間とは、思えないほどに今は静かだ。
ガラスドアの外側から覗き込むと、まだ年若い青年が数人テーブルを囲んで話し合っている。
「ファンに挨拶って、やっぱ重要だと思うし。メジャーになると敬遠しちゃう奴もいるだろ?でも、俺たちがこうなれたのも古いファンがあってこそだしさ……」
テーブルの上に適当に置かれた、烏龍茶のペットボトル。アンティーク調のワイヤーデザインの椅子に腰掛けて、膝がすり切れるほど履き古したリーバイス。薄汚れた、エアフォース。
決して小ぎれいなスタイルではないけれど、彼の瞳に燃える光の結晶が、音楽を相手に真っ向から挑む強い何かを感じさせる。

「イノリ、森村さんが差し入れを持って来てくれたぞ」
両手に馴染みのドーナツショップのボックスケースを掲げて、マネージャーが登場するとイノリたちの視線が一同に集まった。
「おー、ナイス!いいタイミングで腹減ってたとこ……って!おい!何でアンタがここに来てんだよ!?」
背後に森村の姿が見えたのは良いが、その隣にいるもう一人の姿は予想外だった。
「いや、リハーサルを橘さんが拝見したいというのでね、ご一緒してもらったのだが。」
友雅が自分たちのリハーサルを見たい?ホントか?単なる暇つぶしで、ひやかし程度で顔を出したんじゃないのか?妙に胡散臭い。

「そんな疑わしそうな顔をしなくても良いだろうに。生の演奏を聴いて、インスピレーションをもらおうかと思っただけなんだがね?」
そう言って友雅は、イノリたちと離れた店の隅に椅子を引き寄せて、その場所に腰を下ろした。
ホントかどうか半信半疑ではあるけれど…ま、邪魔することもないだろうし。取り敢えず、大人しく聞いていてくれればいいか。
イノリはそう思いながら、チョコレートのかかったドーナツにかじりついた。

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今日もまた、やって来てしまった。
買いたいものなんて何もないのに、今週になってもう三度目だ。天真がバイトでいなかったら、さすがに気まずい。
「おまえね、たまにはCDの1枚くらい買ってみたらどうよ?本屋の立ち読みじゃねーんだから」
そんな事を言いつつも、本気で追い出したりはしないから、ついつい甘えて視聴コーナーを陣取ってしまう。そして、また今日も同じCDを聞く。

CDが発売になっていたなら、すぐにでも買って帰ってゆっくり聞きたいけれど、まだ発売前だからここで聞くしか方法がない。
彼らの試聴盤には、3曲が収録されている。
1曲目は、ハードなギターソロが目立つスピード感のあるロック。2曲目はメジャーコードの聞きやすいロック。そしてラストの3曲目は、これまでとは違ったアンプラグドタイプのバラードだ。
すべて全く違ったパターンの曲調で、それでいて違和感がない。随分と音楽傾向の幅広いグループのようだ。

あかねが一番気になったのが、最後のアコースティックなバラードだった。
「Inclusion」というタイトルのその曲は、これまでとは違ってゆったりと静かにメロディーが流れていく。
ボーカルの歌声は丁寧に言葉を刻み、音の上に重なる。それが耳に心地良い。
終始、アコースティックギターの音だけが、歌声に寄り添っている。
その澄んだ弦の響き。この音があかねの琴線を揺らす。


今までいろいろな曲を耳にして、好きになった歌もたくさんあったけれど……この曲は、一体なんだろう。
まるで心音。鼓動と自然に同化して行くようで、身体が音と一体化するような感覚。それでいて、すんなりと刻まれて行く覚えやすい旋律。
「……淋しさも、弱さも、切なさも……それらすべてが、僕自身だから……」
覚えたてのフレーズを口ずさむと、耳に優しく響くギターの音に溶けてしまいそうな気がする。


「お客様?後がつかえておりますけどー?」
わざとそんな口振りで、試聴ブースのドアを外から天真が叩く。
ヘッドフォンを外して外を見ると、確かに彼の後ろには人気バンドの新盤を手にした男性が、あかねのブースが空くのを待っていた。
慌ててヘッドフォンをOFFにして、試聴盤のCDを取り出してブースを出た。

「まったく、よくもたった3曲くらいで長丁場してられるな、おまえ」
少し呆れたように天真は言いつつ、あかねから返却されたCDを受け取った。
「だって、ホントにこの曲良いんだもの。特にね、この最後のバラードがすっごく良くてね……」
「あー、分かった分かった。もうそれ、毎回聞いてるから覚えた。ギターの音がものすごく良い!ってんだろ?」
ボーカルとかメロディーを気に留めるのは分かるが、ギターについてあかねがそこまでこだわるとは、天真も少し驚いていた。
楽器をかじった過去があるわけじゃなく、普通の同世代と同じような曲を、ヒットチャートに沿って耳にする程度の音楽好きだと思っていたのに。

「ホントに良いんだよー?天真くんも聞いてみると良いよ。すごくね、ギターの音が優しくって、弦の軋んだ音も逆に張りがあってね……」
まるで音楽評論家気取りだな、と、あかねを見て天真は笑いがこみ上げた。



「あ、そういや…さあ…そのCDのバンドって、何て名前だったっけ?」
レジの奥の壁に貼ってある、スケジュール表のようなものを見て天真が尋ねた。
「えっと…確か、『Red Butterfly』…だったかなあ」
あかねからバンド名を聞くと、天真はその表の中に事細かく記されている文字を、ひとつひとつ指で辿った。


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Megumi,Ka

suga