夏服の午後

 第3話
部屋に戻って受話器を取ると、彼は記憶に刻まれているわずかな電話番号のボタンを押した。
「ああ、例の物件なんだけれどね、キャンセルしてもらえないかな。……いや、ちょっと違った方向の物件で、もう一度探してもらいたいと思ってね」

実は、現在友雅は新居を探している。
これまでの部屋に問題があったわけではないが、彼らに居場所を知られてしまっては、今後何かと鬱陶しい事に巻き込まれるのは目に見えている。
ということで、さっさと身を隠して居場所を変えてしまおうというわけで、数日前からウイークリーマンションで過ごしている。
「別に、中心街から離れていても良いよ。むしろ、人があまり多くないようなところの方が良いしね。」
面倒な対人関係を築くのは、好きじゃない。再びこういった場合に陥った際、すぐ転居先が知られてしまいそうだからだ。隣人達の目は、思っているよりも鋭いものだから。

「そうだねえ……だったら古い民家みたいなところも良いかもしれないねえ…。いや、古くて良いよ。どうせ寝るくらいの役目しかないものだろうし。」
ふと、目の前に置き去りにされているグラスに、目が止まった。
すっかり氷の溶けた、ジンジャーエール。まだグラスの半分くらい残っている。
「まあ、そうだね…たまには、日本的な家屋もいいかなと思ってね」
ここにはもういない彼女の、笑顔がそのまま残像としてそこにいるような錯覚を覚えた。耳を澄ますと、声まで聞こえてきそうな。
「出来るだけ、早くにお願いするよ。さっさと民族大移動を済ませてしまいたいのでね」
そこまで大掛かりな荷物なんて、全然ないけれど。
最悪、愛用のギター数本とクレジットカードさえあれば、どこでも生きて行けそうな気もする。物には元来、執着するような人間ではない。


こうして何度か、あちこちを移動してきて…今回で7度目くらいだろうか。あまりはっきり覚えていない。
仕事上、交通の便がいい所を選んで、逆に都会の中の人間関係が薄いことをメリットに過ごして来たが、今度は完全に人の気配が薄いようなところで生活するのも良いかなと思う。
「日本家屋…ね。まあ、新鮮で良いかな」
あきらかに、彼女のさっきの一言に感化されたな、と自覚できた。

そういえば祖母の方の実家は、そんな由緒正しい日本の屋敷だったな、と思い出す。一度か二度しか訪れたことはないが、西洋建築の中で日常を過ごしていた彼にとっては、そこは異空間のように思えた。
庭も部屋も、造りも全く違う。でも、どこか懐かしい香りがした。
………そんなことなど、記憶の彼方に消えてしまったかと思っていたのに。今の今まで、そんな記憶が自分の中にあることも忘れていたのに。

彼女と会うと、何故だか自分でも忘れている記憶が浮き上がって来ることが多い。
この間、あの屋敷に彼女を連れて行こうと思ったのも、どうしてなのか自分でも分からない。
遠すぎて、忘れてしまった記憶。重くて暗くて冷たくて、忘れたくてわざと抹消した記憶。だけど、再び向かい合ってみると、それほど重い感じは無いのが不思議なところだ。
どうしてこんな、経験が度重なるんだろう。


「冷酒をお持ち致しました」
従業員が軽く戸を開けて、今度は少し赤みをおびたガラスの徳利を一本持って来て、空のものと取り替えた。
「こちら、お下げしても宜しいですか?」
彼女がつまんだ小鉢を、そそくさと片付けて行く。そして、ジンジャーエールのグラスを手に取った時、それを友雅は阻止した。
「ああ、それは片付けなくて良いよ。」
持ち上げたグラスの底から、滴る氷のしずくをそのまま受け取る。


薄暗い灯りに透かしてみると、綺麗な鼈甲色に近い色をしているそれを、何気無しに一口含んでみた。
炭酸も氷のせいですっかり消えていて、わずかに舌先を痺れさせる程度。少し鼻に抜けるジンジャーの刺激が感じられるけれど。
ほのかな甘さだけが、口の中に存在を残す。酒とは違う、自然で素直な甘さは………そこにいた彼女によく似合っていた。

残されたそれを飲み干して、向かいの席にそっと戻す。
かすかにグラスに残されていた、オレンジ色のルージュの痕跡に気付かないままで。

+++++

月曜日。
いつものように、あかねは予備校の講習に出掛けた。今日は少し雲が多いから、夕立が有るかもしれない。教室の窓からも、積乱雲も見える。
丁度それらを題材にして、講師が高気圧とか低気圧とか、そんなことを解説していた。
日曜日の次の日は、いつも一日が長く感じる。そして、更にまた一週間後が遠く感じられるのだ。
彼に会えるまでの時間は、とてもとても長い。会ってしまえば、あっという間に過ぎてしまうのに。


講義が終わったあと、何となくあかねは駅の近くにあるショッピングモールに立ち寄った。
夏休みのせいか、夜になっても若者の姿は結構多い。それと交じって、夏休みなど関係ないサラリーマンたちが、人混みの間をヘッドライトに照らされて行き来していた。
あかねは、立ち並ぶテナントの中から、CDショップに足を踏み入れることにした。
「いらっしゃいませー……って、おい!」
自動ドアが開いて、中に入ったとたんにあかねを出迎えた店員。
「えっ!天真くん?!何でこんなとこにいるの!?」
「……なんでって、おまえ…このカッコでこの店にいる意味なんて、一つしかねえだろうが…」
胸を張った天真の格好を改めて見ると、店名のロゴが入ったグリーンのエプロン。そして胸には、『森村』と書かれたネームバッジ。
「バイトよ、バイト。夏休みだしな。俺はおまえみたいに受験コースじゃねえから、結構ヒマしてんのよ。でも、だからってゴロゴロするものアレじゃん?だったらやっぱ、実益を兼ねてバイトだろうなーってさ」
そういえば天真は進学組じゃないから、夏休みを夏休みらしく過ごせるんだな、と思ったら少し羨ましくなった。
「まあ、ホントはさあ、ガテン系の方が俺には合うんだけどさ。結構そういうとこって求人締め切っちゃっててさ。ちょっとばかし脛かじりするようでかっこわるいとは思ったけど、親父に頼んでここの店に潜り込ませてもらったってわけよ」
「あ、そうか…ここのチェーンって…」
店名では一見分からないが、それなりに音楽に詳しい者なら割と知られていることだ。このCDショップチェーンのバックボーンが、天真の父のいる音楽会社だということを。
「でも、それでもバイトしようっていう心掛けがあるだけ、いいじゃない」
「何かその言い方、偉そうだぞ」
軽くコツンと頭を叩かれて、思わず揃って声を上げて笑った。

「で?何かCDでも買いに来たのか?」
「うーん、別に…コレと言って欲しいものがあるわけじゃないんだけど。気分転換に、新しい曲とか聞いてみようかな〜って。何かオススメありませんか?店員さん?」
わざとそんな口調で天真に尋ねると、彼も調子に乗ってその辺りのディスプレイ棚をきょろきょろと見渡す。
テレビや町中で流れる有線などで、よく耳にする流行りのアーティストのCDがずらりと並んでいる。このアーティストの新譜が出ていたんだ、などと考えながらあかねも手に取ったりして、ジャケットを眺めてみたりする。
「視聴コーナーもあるから、勝手に使っていいぜ」
天真が指さしたブースに、ヘッドフォンが並んでいる。
あかねは自分で選んだCDと、天真に選んでもらったオススメのCDを持って、そちらに向かって歩いていった。

その時、耳に入ってきた音が何故か気になった。
店内に流れている曲は、数曲がいくつか重なっている。売れ筋のグループの曲と、洋楽ポップス、その後ろにもう一曲が聞こえていた。
「天真くん、あのさ…この、お店で流れている曲って…誰の?」
「あ?どの曲?」
「えーっと…この、何だかこう…張りのあるギターの音が響いてる曲。あまり聞いたことのない声だけど、新しい人たちなの?」
生憎天真も付け焼き刃的な立場なので、それほどアーティストに詳しいわけでもない。
すぐに裏手のオーディオルームに入って、かかっている曲を探し出してみた。

「あー…新しいグループかも。インディーズからメジャーデビューだってさ。多分、プロモーションって感じで流してんじゃん?」
そう言って、天真はプレス用と書かれていたジャケットをあかねに見せた。
手書きで書かれているバンド名は、"Red Butterfly"。聞いたこともない名前だ。歌っている人たちは……写真がないので分からない。
「ねえ、これ聞けないかな?視聴することって出来ない?」
「うーん…ま、いいんじゃん?別に売るわけでもないし。気に入ったら、入荷したときに連絡してやるよ」
あかねは天真の好意に甘えて、そのCDを持ってブースの中に入っていった。

CDテーブルにセットして、ヘッドフォンのボリュームを調節してから耳に当てる。
ゆっくりと、その音はあかねの耳の奥に流れ込んできた。

少年のようで、それでいて輝くように芯の通った歌声。ヴォーカリストは、まだ若そうだ。
リズムの早いロックなのだけれど……でも、そこに絡み合っているギターの音が……何故かあかねの神経に響く。
どこで聞いた音だろう?無性に、胸の鼓動にシンクロしてくる音は何故だろう?
こんな経験をしたのは、あの時以来。……そう、友雅のギターの音を初めて聞いた、あの時以来。

眠りを誘う、癒される音。メロディーとリズムとは正反対に、ため息をつくことさえも忘れそうな、そんな気持ちにさせる。
目を閉じると……彼の指先から流れる音を思い出す。



-----THE END-----


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Megumi,Ka

suga