夏模様

 第2話
キッチンの引き出しに入っていた、ティースプーンで1杯と半分。ポットから注がれるお湯で、それらは褐色の液体に変化する。
薫る湯気をくぐらせて、中身を軽くかき回し、何も入れずに2杯目のコーヒーが出来上がった。
コンビニなどで買えるものは、どこにでもある食品メーカーのインスタント程度で、それでもブルーマウンテンとか、キリマンジャロといった銘柄別に並んでいただけでも
良しとしよう。

「友雅さん、コーヒーが入りまし……」
両手でカップを支えながら、キッチンからメインルームへとやってきた。
その時、あかねが目にしたものは、返事をしない友雅の姿だった。

そっと足下に気を配って、ゆっくりと彼に近づいたけれど、全く反応は何もない。
そのかわりに、かすかに聞こえてくる息づかい。呼吸音。深く吸い込む息のリズム。覗き込んだ彼の瞳は、閉じられたまま。
コーヒーの香りにも、気づく様子はない。

音を立てないようにカップをテーブルに置いて、あかねはさっきまで自分が座っていた椅子に戻った。
腰を下ろして、まっすぐ前に友雅の姿を見た。束ねた髪が、少しだけほころびかけている。柔らかい髪が、睫毛にかかって視界を遮っているようにも見えた。

----------疲れてるよね。うん…さっきまでお仕事してたんだもの。

声に出さない、独り言をあかねはつぶやいた。
仕事に集中すればするほどに、疲労はどんどん大きくなっていくものだ。夕べから徹夜してまで、約束の時間をオーバーしてまで、手放せなかったほどの仕事。
吸い取られるパワーは、予想できないほどだったんだろう。
ほんの少しの間、リラックスしただけで睡魔に心を奪われてしまうくらいに。

どうしよう。
時計は既に11時を回っていて、いつもの日曜日ならば、そろそろランチの相談を始める時刻だ。
しかし、まだ今日の予定は全くの白紙で……彼は、眠りについていて。
でも、そんな彼を起こす気にはなれなくて。
張りつめていた緊張感から、やっと抜け出す事が出来た彼の時間を、邪魔する事はどことなく気が引けたから。

だけど、週に一度のデートだし。このままそっと帰るのも…黙って消えるようで、何か微妙な感じだし…。
とか言って、こうして眠る彼のそばにいるだけ、というのでは、時間を持て余してしまうのは間違いない。
友雅の気持ちも分かる。でも、あかねの気持ちも抑えが利かない。
天秤にかかった二つの理由。どっちを最優先すべきことなのか……答えは簡単に出て来ない。

「はぁ〜………」

ふと、こぼれたため息に、声が少し混ざった。
防音完備の部屋の中は静寂しかなく、普通なら聞き逃してしまうような音であっても、聴覚は敏感に反応してしまうようだ。
ぴく、と、友雅の肩が動いた。続いて、少し首を動かして顔を上げて…瞼はまだ、閉じたまま。
静かに目を開けて、靄のかかった世界から現実の世界へ、ゆっくり意識を移動させる。そうして、目の前にいるあかねの姿を見た。

「………悪かったね。」
「え?」
まだ光に慣れていない目を片手で覆って、少し刺激を与えながら友雅は視線を足下に落とす。
「君の前で睡魔に負けるとは、自分でも思ってなかったよ」
慣れないことをしたせいだろうか。自分の事は自分が一番分かっていると、そう思っていたのだが。
どんなに疲れていようと、彼女が一緒にいれば、力を失うことなどないと思っていたのに。
「しょうがないですよ。お仕事が終わったばっかりなんですから。疲れていて当然ですよ。」
さっきまで悩んでいたとは思えない程、今あかねの口から、すうっと言葉が自然に出て来た。
自分の要望を、示すことが出来なくなった。友雅の、ため息を聞いてしまったから。
「今日は…このまま、お休みした方が良いんじゃないですか?疲れてるでしょう?」
「…週に一度の、せっかくの一日がキャンセルになってしまうよ?」
若干冷めているコーヒーのカップを、友雅は口に近づけた。
「だって、友雅さんの身体の方が心配ですよ…」

「姫君に心配されるようでは、エスコート役として失格だな」
前髪をかきあげて、友雅は苦笑した。


「お腹、すいているかい?」
唐突に友雅が、そう尋ねて来た。
「……ほんのちょっと、くらいですけど。別に、すいているっていう程じゃ…」
「了解。悪いけど、デスクの上にある電話、貸してくれるかい?」
ホワイトグレーの事務的な電話機を、コードいっぱいまで引っ張り出して友雅に手渡した。
そして彼は、記憶の中に刻んである番号を押した。


+++++


「まったく…最初からマトモに気合い入れて仕事してりゃ、ドタバタしないで済むんだっての」
スタジオのソファに寝転がったイノリは、両耳にセットしていたヘッドフォンを取り外した。
一晩中、友雅のこだわり続けた音の仕上がりを、やっと聞き終えたところだ。

ストリングスのバランス、ドラムのボリューム、サンプリングの使用頻度…何もかもが、これ以上はないほどの完璧な形となっている。
「真面目にやってりゃ、住むところを追い出されるなんてことに、ならないだろーに★」
呆れながらイノリは機材をテーブルに置いて、歌詞を書くための自分専用ノートを広げた。
そして、冷めたせいでしなびているポテトを口に放り入れて、一気にコーラで胃の中に流し込んだ。
「イノリ、ちょっといいか?」
ドアを開けて入ってきたのは、彼のマネージャーである。彼の手には、子機が握られていた。保留ボタンが点滅している。
「橘さんから電話だ」
「……はぁ?なんで。」
いくらなんでも、もう友雅がスタジオを出てから30分以上経っているし、部屋には既に到着しているはずだ。
となれば、つまり相手はデートの真っ最中っていうことで、その途中で何でまた電話なんかかけてくる意味があるというのか?

「もしもし?すまないねえ、仕事中に」
「……あのさ、なんで俺に電話する暇なんか、あるわけ?アンタ、デートの最中じゃなかったっけ?」
それとも、部屋に帰ったら誰もいなかったとか…そういう展開でもあったのだろうか。
「君くらいの年代で、ちょっと豪勢なレストランとかだと、どの辺が思い当たる?」
いきなり何を尋ねるかと思ったら……おおよそデートでの食事の場のリサーチと言ったところだろう。
見たところ、彼女はイノリと同年代くらいだと思われたし、調べるよりは近場にいる同世代に聞いてみるのが一番だと思ったに違いない。
しかも、『ちょっと豪勢な』という指定付きだ。普段なら行けない、イノリたちの年令では大人びている店。だけど、『行ってみたい』と憧れるようなランクの店。
「自腹じゃあんまり行けないって言ったらー……西口にある焼肉屋かな。あそこの、ちょー美味いけど高えし、おごってもらわなきゃ無理だな」
「悪いけど、それは却下だね」
あっさりと即座にイノリの意見は払いのけられた。
「可愛い女の子には、あまり似合わないからね」
思わずむずかゆくなって、首をかきむしりながらイノリは受話器に向かって舌を出した。
「和食?洋食?中華?それくらい決めろよ」
「………やっぱり洋食かな。出来ればデザートの種類が多くて、それと…ああ、ケータリングしてもらえるところが絶対条件で」
「ケータリングぅ?」
レストランで宅配をしてもらえる店なんて……そう簡単に思い浮かぶほど多くはない。イノリの記憶の中で、そんな店があっただろうか。頭の中を検索し始める。

丁度マネージャーが部屋に入って来たので、イノリはメモ用紙に友雅からの依頼を書きなぐり、彼に見えるように差し出した。
マネージャーはしばし考えていたようだが、思い当たる店があったようで、首から下げていたネックピース付きのボールペンで、そのメモに店の名前と番号を書いて
イノリに手渡した。
「もしもしー?隣駅の前にあるビルの、裏手に小さいイタめし屋があるんだってさ。そこだったらメニューは限られるけど、宅配してくれるってさ。うちのマネージャーが
接待で行ったらしいんだけども、会社が接待費で負担してくんなかったら、なかなか行けないって、そーいうクラスらしい」
イノリも友雅も、はじめて聞く店の名前だったが、会話中に友雅がつぶやいた店名を聞いて、あかねが何かリアクションをしていたので、どうやらお気に召してもらえそうな
店のようだ。
「助かった。じゃあ連絡してみるよ。」
友雅の満足した声が聞こえた。
「あのさー、何で宅配なんかすんの?デートだったら、予約でも入れて食いに行きゃいいじゃん。」
普通に店を訪れるのなら、更に選択肢も増えるだろうに…と思い尋ねると、一瞬ふっと笑うような声が受話器から聞こえたあとに、答えが返って来た。
「その他大勢がいる場所よりも、二人きりになれる密室で過ごす方が、デートには最適だと思わないかい?」
………聞いているこっちの方が、歯が浮いた気がした。



「友雅さん!メニューがFAXで届きましたよー!」
1階ロビーにあるビジネスルームにあるFAXで、レストランから送られて来たケータリングメニューを手にして、あかねが戻って来た。
丁度電話が終わったところだった。イノリの苦々しい表情が思い浮かんで、少々冗談が過ぎたかな、と考えつつも、思わず笑みがこぼれた。

冗談…かどうか。
すべて冗談、ではなくて、本音も少なからず--------間違いなくあると思う。
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Megumi,Ka

suga