突然の夏

 第4話
もう少し高いストリングスの音が欲しかった。ただそれだけの事だったのだが、どうにも納得のいく音が見つからずに、延々それだけで1時間近くが過ぎている。
時計が午前10時になっても、張りつめた緊張感は衰えることを知らない。こんなに集中力が冴えているのは、滅多にないことだ。
我ながら不思議なこともあるものだ、と友雅は思った。

今朝から数えて3杯目のコーヒー。スタジオにある自販機のコーヒーは、事務的な味がして美味くはない。
だが、うっすらと波が来る睡魔と疲労に勝つには、この苦い液体で喉を潤すしか方法がなかった。
不味いコーヒーを飲むと、あの喫茶店のコーヒーが恋しくなる。
そして、同時に彼女の事を思い出す。

「おっさん、一区切りついたかー?」
ドアを開けたとたんに、外の気温が中まで入り込んできて、一瞬だけだがぬるくて居心地の悪い空気を作る。
「言われた通り、部屋まで案内したからな」
冷えたコーラの缶を開けて、飲みながらイノリがこちらにやってくる。徹夜明けで記憶がすっきりしない友雅の手元を、後ろから覗き込んだ。
音符の並ぶ五線紙の上に、書き殴ったような文字が散らばる。片耳だけ当てたヘッドフォンから、音がわずかに漏れていた。
「妙なことをしなかっただろうね?」
背を向けたまま言った友雅の言葉に、イノリは思わずコーラを吹き出しそうになった。
「ばっ…変なこと言うな!俺がそんな奴に見えるか!?」
見えないから、敢えて彼に頼んだのだが。こちらの想像以上に取り乱すイノリの様子に、友雅は笑いを隠せなかった。

「と、とにかく…待たせてる相手がいるんだから、早く仕事を終わらせろよな!。明日出来ることまで、わざわざやるなよ!?」
それだけ言い残して、イノリは部屋を出ていった。
自分よりも遙かに年下の少年に、説教されるとは思っても見なかったな、と笑った。
大丈夫、言われなくても分かってる。そろそろ、今日の仕事にエンドマークを付ける時間だ。
これ以上彼女を待たせることは出来ないし、これ以上二人で過ごす時間を短縮することは自分としても避けたい。

チューニングのボタンをいくつか合わせて、それらをミキシングする。あらかじめチェックをしていた音を絡ませてみる。
最後の作業。ここで、やっと友雅の仕事は幕を閉じた。
もちろん、今日の分というだけであって、まだまだ気の長い作業はゴールに程遠い距離を残しているのだけれど。


■■■

結局の所、あかねは手渡されたキーでドアを開けた。
部屋はホテルのゲストルームという雰囲気がなく、まるで賃貸マンションのような作りだった。
8畳ほどの部屋にはベッド、テレビやPCなどの日常的なものが揃い、ドアを隔てた奥にある部屋は、ミニキッチンとユニットバスがあるらしい。
デスクの上に置かれていた、パンフレットのようなものに目をやる。この建物の名前が、金文字で記されていた。
「ウイークリーマンション…」
よくCMなどで見かける、滞在型のマンション風の宿泊施設だ。ビジネスエリアの立地を考えれば、単身赴任や出張などで利用する客が多いのだろう。需要はかなりありそうな感じだ。
だが、同じ市内に住んでいる友雅が、何故ここを借りなくてはならないんだろう?と思うと、妙な気がする。
タクシーを使ったとしても、30分以内で移動が出来そうな場所に住んでいるのに、わざわざここを借りている理由は一体?

「自由にしてて良いって…言ってたよね」
部屋の中を、くるっと一周してみる。キッチンの冷蔵庫を開けてみると、予想通りたいしたものは入っていなかった。
輸入物と思われる、綺麗なボトルに入ったスプリッツァーが数本。シンクには、その空き瓶が2本ほど置いたままになっている。
「何も食べ物ないけど…どうしてるんだろ?」
テイクアウトのごみもないし、食事をした形跡は見当たらない。ちょっとくらい、何かを食べた跡があっても良いと思うのだが。

と、その時だった。部屋の電話が突然に鳴り出した。
どうしようか。出ても平気だろうか?でも、ここは友雅の部屋だし、自分が出たら変な風に思われないだろうか?
あれこれと悩んでいる間も、いっこうに電話は切れる様子がない。
思い切って、あかねは受話器を取り上げて……相手を探ることにした。
「…………」
「…………」
お互いに沈黙が続いた。まだ、相手はこちらが友雅ではないことに気付いていない。ましてや、電話に出ているのが女であることも分からないだろう。
さあ、どう切りだそうか……と考えていると、先方が声を出した。
「部屋に入ってくれたようだね」
その声を聞いて、一気にそれまで張りつめていた緊張感が緩んだ。
「……友雅さん………」
思わず、名前を口にした。虚脱感のような、すうっと砕けたトーンで。

「唐突なことで、驚かせてしまって悪かったね。どうしても、仕事に区切りが付かなくてね…」
「…もう大丈夫です。ちょっとだけ不安でしたけど、友雅さんの声を聞いてホッとしました」
顔を合わせていないけれど、声が聞こえるだけで安心する。ここまでやって来たことが、確実に友雅につながっていると確信出来たことが、あかねの中にあった不安を全て消し去ってくれた。
「あと10分くらいで、そっちに着くよ。それから、今日の予定は考えよう」


電話は、それほど長い時間ではなかった。ほんの2〜3分くらいだったと思う。
だけどあかねにとっては、ようやくここで友雅に会えたような、そんな気がしていた。
今度こそ、彼に会える。少々遠回りをしてしまったけれど、辿り着く場所が彼のいる場所ならば、それで良い。

外は時間が経つに連れて、暑さを増していく。
もうしばらく、待っていよう。そうすればきっと………遅い休日が始まる。


+++++

「じゃ、これで今日は終わりだ」
音をまとめたテープと、チェックを済ませたスコアを束ねて、友雅はイノリに手渡した。
「これから私は休暇に入るから、連絡はしないように頼むよ。」
「…しようと思っても、アンタ携帯持ってないからつながらねーだろ」
こういう時、携帯がないというのは便利なものだ。持っていないと『不便だ』と思う人が大半だろうが、友雅にとってはそうではない。
仕事を終えたあとに、自分の使える時間を他人に引き裂かれるのは気分が悪い。だから、連絡を断てるというのは好都合なのだ。
「まあ、何かあったらフロントに頼むよ。FAXでも伝言でも。おそらく外出しているだろうから、すぐに返事は出来ないと思うけどね」
飲み終えたコーヒーの紙コップを潰して、ダッシュボックスへ投げ入れる。ソファの背にかけたままの、グレーのジャケットを軽く羽織った。

通路を歩きながら、窓の外に目を移す。今日も暑い日になりそうな天気。気温は既に、不快指数近しという感じだ。
そんな中でも、少女たちはパワフルだ。イノリ目当ての彼女たちは、スタジオの外で日傘をさしたりしながら集まっている。
「今日も暑くなるよ。倒れないように気を付けなさい」
彼女たちの前を通り過ぎる際、ふとそんなお節介な声を掛けてしまった。

「あ、あの……」
一人の少女が、友雅に声を掛けてきた。年頃は17〜8くらいだろうか。メイクは少し派手目な気もするが、おそらくあかねと同じくらいの娘だろう。
「えっと…スタッフの方…なんですか?」
後から続いて3人ほどの娘が、更にこちらに駆け寄ってきた。
「君たちのお目当ての彼は、一日中スタジオで仕事だよ」
大人びたコロンの香りが、夏の気温で蒸発して鼻をくすぐる。軽い香りさえも、むせるような濃い香りに思えてくる。
「あのー、ミュージシャンなんですか?」
妙にはきはきとした少女が、再び話しかけてくる。便乗して他の少女たちが、取り囲むように距離を狭めてきた。
意味不明の彼女たちの行動に、友雅は対処の方法が思いつかなかった。
が、断言出来るのは、見知らぬ相手に付き合える余裕も暇もない、という現実だ。
「悪いけれど、急いでいるから通してもらうよ」
ほんのわずかな隙間をすり抜けて、友雅は彼女たちの輪から外れることに成功した。
一度も振り向くこともなく、彼はその場を足早に後にした。

車の少ない横断歩道を走って渡り、姿が見えなくなるまで彼女たちは様子を伺っていた。
「やっぱ、良いよね?」
他の少女たちも、揃ってうなづいた。



-----THE END-----
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Megumi,Ka

suga