突然の夏

 第3話
午前10時を回ったことを、店内の鳩時計が告げている。
朝日に照らされた窓辺の緑が、ガラスを通してきらきらと鮮やかに輝き始めた。
二度目のおかわりを終えたアイスティーのグラスは、既に氷が形を消していた。

カラン。
ドアを開けるチャイムが響いて、そちらに目を移した。
が、入ってきたのは待っていた人ではなく、あかねが予想もしなかった相手だった。

彼はぐるりと店内を見渡し、あかねの視線に気付くと迷わずにこちらに向かって歩いてきた。
そして、目の前で立ち止まり、テーブルの上にあったオーダー票を手に掲げた。
「突然で悪いんだけどさ、着いてきてくんない?」
赤い髪をした彼が、あかねに言う。
「あ、おっさんの承諾済みだからさ。裏の駐車場に車停めてるんで、取り敢えず着いてきてよ」
…彼は以前、町中で友雅とやり合っていた少年だ(と言っても、あの時は一方的に彼が突っかかっていた、というのが正しいが)。
それが何故、急にあかねの目の前にやって来たのか?
状況が飲み込めていないあかねは、しばし現在の自分に起こっていることにぼうっとしていると、彼は急かすようにオーダー票をかざして、カウンターの近くにいた詩紋を呼び寄せた。
「これ、精算頼む。」
慌てて詩紋がレジに向かっていくと、赤い髪の少年もすたすたとそちらに向かって歩いていった。
まっすぐ背筋の伸びた、迷いのない歩き方がぱきっとしていて気持ちいい。
「おい!レジ済んだから、早く来てくんない!?」

店内に響き渡るような通る声で呼ばれて、こちらまで背筋がぴんと伸びた。


+++++

「ちょっと待って下さい!いきなり着いてこいって言われても、私……」
店の外に出て裏手に向かう途中、彼の背中に向かってあかねは問うた。
自分は友雅と待ち合わせをしている。連絡方法を持たない彼と出会う接点は、『日曜日の午前10時にここで会う』ということしかないというのに、席を外してすれ違ってしまったら会えなくなってしまうかもしれない。
週に一度しか会えないのに。
「私、待ち合わせをしているから…ここを離れるわけにいかないんです!」
あかねが慌てて言うと、彼はくるっと振り返って指先を差し出した。
「だから、言っただろ?さっき。おっさんに承諾を得て、ここに来たんだって」

駐車場には、白いセダンが停められていた。彼は後部座席のドアを開けると、先に乗るようにとあかねを誘導した。
本当に乗って良いんだろうか。ここまで来て躊躇しているあかねを見て、イノリはその背中を軽く叩いた。
「変な詮索はすんなって。俺も、他人のカノジョに手を出す趣味はないからさ。そんなことしたら、おっさんに何されるか分かったもんじゃねえし」
「カ、カノジョ…って、私……っ」
その言葉に過剰反応しているあかねなど気に止めず、どんどん遠慮なく背中を押してくるイノリの力に負けて、車の中に転がるように乗り込むと、運転席にいた男性が静かに微笑んで頭を下げた。
「準備オッケー。じゃ、来た道リターンね」
後から乗り込んできたイノリが言うと、ゆっくり車が走り出した。


これから、どこに連れて行かれるんだろう?友雅の許可で、と言ったけれど、そこで彼が待っていてくれるんだろうか。
待ち合わせの場所変更?店に電話でもしてくれれば、こっちから出かけていったのに…。
「今日は暑くなりそうだから、外を歩かせるのは可哀想だから、って言われてな」
隣で腕組みしながら、窓の外を流れる風景に目を凝らしていたイノリが、そう答えた。
「ちょっと仕事が手こずってるから、少し時間かかるかもしんないからさ。だから、ここじゃなくてスタジオの近くで待っててくれって。これ、おっさんからの言伝ね。」

夏の日曜日は、町中でも人が早くから溢れている。
ボーイッシュなTシャツに、ビルケンシュトック。キャミソールドレスにオープントゥのミュール。それぞれの夏スタイルに着飾った女性たちが、太陽が昇り始めた町中を歩いている姿が見えた。

で、イノリはちらっと隣を見た。
肩に掛かるくらいの髪を、サイドだけ花の形をしたピンで留めて。バニラアイスみたいな色のシフォンワンピースと、お揃いのカラーのサンダル。
そして、冷房避けのためだろうか。少し厚手のレモンイエローのショールを膝の上に置いている。
友雅と会う今日にあわせて、いろいろと悩んだりした結果なんだろう。姉も、そんなことをしていたな、とイノリは昔のことを思い出した。

しかし…あの友雅が、こんな『普通の女子高生』の肩書きがぴったりな少女と付き合っているなんて、一体どんな運命の悪戯があったのだろうか。
仕事にしろ私生活にしろ、全く…つかみどころのない奴だ、橘友雅という男は。


■■■


車は、あかねが馴染みのない方向へと進んでいった。
繁華街から少し離れた、オフィスが多いビジネスエリア。OL達の気を引く為にと、最近はセレクトショップやセンスの良いカフェなども増えていると言うが、高校生であるあかねには全く縁遠い場所と言える。
平日営業のビジネスタウンは、土日になるとぐっと人通りが少なくなる。さっき通り過ぎた駅前とは正反対だ。
すると、車がようやくスピードを緩め始めた。そして、とあるビルの前でエンジンが止まった。
「さてと。着いたぜ」
車を降りて先に進んでいくイノリを、あかねは急いで追いかける。ガラス張りの回転ドアをくぐると、シンプルで広いエントランスが目の前に広がっていた。
フロントカウンターに、紺色のスーツを着た男女が立っている。イノリはそこに向かうと、何やら彼らと話を始めた。
「お伺い致しております。お部屋は3階の307号室になっております」
そう言って、フロントの女性がルームナンバーの入ったキーを差し出した。

「ちょっと待って下さいっ!」
キーを手にしてエレベーターの前に立ったイノリに、あかねが少し声を荒げた。
「こ、ここ…何なんですかっ!?」
「…ホテルに決まってんじゃん。」
チャラ、とキーのチェーンが手のひらで擦れ合って、金属音を奏でた。それとほぼ同時に、エレベーターが到着した電子音が響いた。
「わ、私は友雅さんと待ち合わせをしてるって、さっきも言ったじゃないですか!なのに、どうしてこんなところに連れてくるんですか!」
頭の中が混乱してきた。
彼は『友雅に頼まれたから』と、あかねを迎えにきてくれたと、確かにそう言った。スタジオの近くで待て、と言われて着いてきて、到着した場所がホテル…!?。
一体どんな展開が用意されているんだ?何もかもが予想を超えている。本当に…友雅に会えるんだろうかと、そんな不安までよぎり始めた。
と、イノリは少し口を尖らせて、きっと強い目をこちらに向けた。
「あのさあ、何度も言うけど、俺はやましいこと何にも考えてないから!」
ぴしっときつく忠告した。
…まあ、彼女があれこれとパニックを起こすのも仕方がないな、とイノリ自身も思ってはいるのだが。



キーに書かれた番号と同じ部屋の前で、二人は一旦足を止めた。
この部屋の中に……何がある?はっきりとイノリは否定したけれど、それでもまだ不安と戸惑いは拭えない。
友雅に会いたいからやって来たのに…。ただ、それだけだったのに。

バッグを持つ手が、少しだけ震えている。ショールが手からすり落ちたことも、まだ彼女は気付いていないようだ。
仕方がない。この後は彼女自身に任せるしかないか、とイノリは思った。
手にしていたキーを、あかねに差し出す。
「ここ、おっさんが借りてる部屋だから。ここで待つように、アンタを案内しろって俺は言われただけだから、ここで帰るわ」
イノリの手のぬくもりが残る、ルームキーがあかねの手のひらに落ちてきた。
「中に入るのも、このまま逃げてもアンタの自由だからな。取り敢えず、おっさんからは『部屋で自由にくつろいで待っててくれ』って言われてるから、あとはアンタ次第ってことで」
友雅に言われたことは、全て告げたしやり遂げた。彼女がどういう行動をするかまでは、イノリの管轄ではない。それはあとで、友雅にそう言っておこう。
くるりと背を向けて、イノリはあかねの前を去っていく。
下がったばかりのエレベーターが、再び上昇してきた。電子音と共に開いたドアに向かって、彼は姿を消した。
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Megumi,Ka

suga