突然の夏

 第2話
夕飯をごちそうになるなんて予定はなかったのに、並べられた寿司や飲み物を差し出されて、結局その雰囲気にあかねは呑まれてしまった。
ただ、天真の父に尋ねたいことがあっただけなのに、いつのまにかそんなことさえ忘れて、笑っている自分に気付いたのは数時間が過ぎてからのことだった。
食事も終わり、デザートのストロベリーアイスクリームに手をつけてから気付くとは、我ながら情けないと少し自己嫌悪に陥った。
「母さん、ビール小さい缶でいいから、もうひとついいかな」
天真の父が空になった空き缶をちらつかせると、渋々ながらも母は嫌な顔をせずに冷蔵庫のドアを開けた。

「おじさん…あの、こんなにくつろいじゃって…今更言うのもなんなんですけど…」
丁度斜め隣のソファに腰を下ろしていたあかねが、ようやく本題を口にした。
すると、天真の父は少しあかねの方へ身体を傾けて、丁度良い角度で向き合う姿勢を取った。
「ああ、そうだ…何か私に聞きたいって言っていたんだね。随分と遅くなってしまったが、何か気になることがあったのかな?」
手渡された手のひらサイズのビール缶が、ぷしゅっと少し泡を吹き出して封を切られた。
「この間、お土産にいただいたブローチのことで…。あれ、どちらで買ったのかなーって……」
日本ではまだ浸透していない、海外でブームを高めているブランドは多い。あかねはそれほど知識がないが、出張で海外を行き来している天真の父ならば、
そういうものには詳しいのかも知れない。
ブランドものなら、量産している可能性がある。それなら、たまたまお土産がだぶる可能性も、少なからずあるかもしれないと思う。
「あれは…確かロンドンの、ピカデリーサーカスの近くにある店だったかな。小さい工房で、彫金職人が数人で作品を展示しているお店だったよ」

その言葉で、あかねの推測には無理があった、と分かった。
ブランドものでないのならば、量産されている確率は低い。ましてや、そこは小さな工房。それとも、向こうでは老舗だとかのステイタスのある店なのだろうか。
「何人かの彫金師がいてね。その中で、葉っぱをモチーフに作っている人がいて。丁度綺麗なものがあったから、蘭とあかねちゃんにおそろいなら良いかなと思って選んで来たんだけれど」
おそろい……蘭と、そしてもうひとつ、偶然におそろいになった同じブローチがあかねのところにある。
「有名なお店なんですか?そこって…」
「いや、私はそういうのは疎いんでね。ある人から紹介してもらった店だったんだけれど、良い店を教えてくれて助かったよ。」
天真の父が言う、『ある人』。その言葉が引っかかった。
それはもしかしたら………。
「教えてくれた人って……誰ですか?」
あかねは思い切って、尋ねた。天真の父の口から、知っている名前が聞こえてくるかもしれない、という、わずかな期待を抱いて。
だが、少し彼は首をかしげて唇をかみ締め、一瞬ためらった様子を見せてから、いつもの表情に戻って答えた。
「ん、まあ…仕事で付き合いのある人だよ。それほど親しい人ではないけれどね。」

音楽業界の人間であるから、ミュージシャンから音響スタッフ、他社のレコード会社の人たちや出版社など、付き合いのある人は多方面に幅広いに違いない。
その中で、もしかしたら…張り巡らされている糸が、どこかで繋がっているんじゃないか?
まだ、ほんのわずかしか知らない、あの人のこと。その彼の本当の姿を…知るチャンスが目の前にあるのかもしれない。

彼の正体。彼の本当の姿。彼のプロフィール。
------------彼の、何を知りたい?
疑問符が、突然あかねの頭の中に浮かび上がった。

「あかね、電話鳴ってるぞ」
天真の声に耳を澄ますと、バッグの中に押し込んだ携帯電話から、着信音が鳴り響いている。自宅からの着信メロディだ。
慌てて取り出して通話ボタンを押したとたんに、響いてきたのは母の声だった。
『あかね!あなた、いい加減に帰ってらっしゃい!何時だと思ってるの?森村さんのお宅に失礼でしょ!』
時計を見ると…母が小言を言いたくなるのも理解出来た。いつのまにか10時を過ぎているじゃないか。
平日の夜に他人の家に居座るには、非常識と言える時間になっていた。
「天真、そろそろ送って行ってあげたらどうだ?夏休みも近いから、夜道も結構物騒になってきただろう。」
天真の家からあかねの家まで、住宅街から住宅街への移動のために比較的落ち着いた道のりではあるが、その分夜は静かで不気味と言えば不気味だ。
「じゃ、ちょっと俺送ってくるわ。」
リビングにあるサイドボードのトレイに、置いたままになっていたバイクのキーを取り上げる。
ドアを開けると、廊下から少しむっとした熱のある空気が入り込んで来た。

「で…聞きたいことは、そのことだけだったのかな?」
帰る支度をし始めたあかねに、天真の父の声が掛かった。
「あ…いいえ、それだけです。つまんないこと聞いて、すいませんでした。」
そう答えて軽く頭を下げ、玄関先で呼んでいる天真の元へあかねは急いだ。

+++++++++

天真のバイクで家まで送ってもらい、中に入ると少しだけ母に小言を言われたが、幸いそれは短時間で済んだ。
急かされるようにして入浴を勧められ、着替えを持ってあかねはバスルームへと向かった。

白い湯気のこもるバスタブの中で、目を閉じると水音がやけに大きく響いているように思えた。
少し薄暗いライトと、アロマエッセンスの香りが気持ちを落ち着かせる。
その空間の中で、もう一度考えてみた。

天真の父と話していた、あの時。ふと浮かんだ疑問符が、あかねの問いかけを引き留めた。
自分は一体、友雅の何を知りたいと思っていたんだろう?
彼の生い立ちがどんなだったのか?それとも、彼の家族構成や、彼の仕事についてのことか?

『ある人』という人物が、友雅である確証はない。もしかしたら、このブローチについては、本当に偶然の一致なのかもしれない。
もし、それが友雅であったとしても、彼のことを知って何になるんだろう。
そして、それが…彼自身、他人に知られたくないことだったら?
知らないふりをしていても、黙っていても、どこかできっとほころびが出て来る。

誰にだって、知られたくないことはあるんだ。あかねは、そう考えた。

あの日、彼が過去を過ごした場所に出かけた日。そこで彼が口にした思い出たちは、その許容範囲から抜け出せた一部のこと。
それさえ、普段は言葉にしないものばかりだ。彼が、閉じこめていた過去のかけらだ。
しかし彼は、それをあかねに話してくれた。
記憶の世界に踏み込むことを、彼はあかねにだけ許してくれた。誰にも入る事のできない、その世界を。

これ以上、先を望んで良いのか。彼が、自分自身のことを打ち明けてくれたのは、あかねを信じてくれていたからと思いたい。
それならば、黙って彼だけの領域に歩んでいくことは、ルール違反になるのかも…と思ったら、それ以上は聞くことが出来なかった。

必要なことは、きっと口にしてくれるはずだ。
知っていいことは、彼は自分から打ち明けてくれるに違いない。
彼が自分を信じてくれているなら、自分も彼を信じよう。無断で土足のまま、心の中に忍び込むことはやめよう。
いつかきっと、何もかも分かる日がきっと来る。それを自然に任せて、待っていれば良い。

「うん。それで良いんだよね、きっと…」
両手ですくった湯に顔をうずめて、あかねは余計な雑念を振り切ることを決意した。


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夏休みに入っても、受験生はのんびりできることなど出来ない。逆にこの夏の過ごし方次第で、来年の結果を左右されるとなると油断は出来なかった。
ゼミの特別講習に加えて、学校の受験コース向け課外授業。名ばかりの『夏休み』は、スケジュールがぎっしりと詰め込まれていて、いつもの夏より疲労度が増しそうだ。
しかし、これまでのことが功を奏したせいで、親や担任たちからの小言を言われることもなく、精神的には気楽な毎日を過ごしている。
おかげで週に一度の外出も、詮索されることもなく出かけることが出来た。それが、あかねには救いだった。

「あかねちゃん、いつも30分は早く来てるよね。約束って10時なんでしょ?」
詩紋がさくらんぼのアイスティーと共に、サービスの焼きたてクッキーを添えてテーブルに置いた。
「うん、そうなんだけど…遅れちゃうと困るし、ちょっと早めに家を出てくるんだ。」
その答えは、半分本当で半分は嘘。遅れないようにと気を付けているのは間違いないけれど、日曜日は自然に朝早く目が覚めてしまうようになってしまったから。
これから始まる一日が楽しみで、目も身体も冴えきってしまって。早く会いたくて、じっとしていられなくて。
そんな日曜日が、あかねの毎日の源泉だ。この一日があるから、頑張っていられる。
彼に会えることが、気持ちを輝かせてくれる。

そんな風に自分の思いをよみがえらせながら、今日も彼が来るのをここで待っている。
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Megumi,Ka

suga