突然の夏

 第1話
大きな窓から見える階下の景色は、こじんまりとした一戸建て住宅が立ち並んでいる。
住宅街の真ん中にあるこのマンションの周りには、高いビルは見当たらなかった。
見下ろす視野の範囲には公園などが転々とあちこちに配置され、決して多いとはお世辞にも言えないが、緑が見えないことはなさそうなロケーションだ。

以前とは随分とかけ離れた場所に住んでいるな、と彼女は率直に感じた。
あの頃、広がっていた景色は全て緑か青だった。空の青と海の青。そして芝生の緑に木々の緑。
自然の美しさに囲まれた、そこでの暮らしは季節ごとの美しさがあった。
今はもう…過去の記憶でしかないが。

振り返って、くるりと見渡す部屋の中は殺風景で、一枚の絵さえも飾られていない。真っ白なままの壁、無機質な色のブラインド。
散らかっているのは、流れて来たままのFAXの山と、音符が羅列してあるノート。
そして、ソファに置かれたギター。
彼女は弦に手を伸ばし、その赤いマニキュアの指で弾いてみた。
ただ、震えるだけの音がリビングに小さく響いた。

「……しばらくは戻って来なさそうね…」
ため息ひとつをこぼしたあと、疲れたように彼女はつぶやいた。
そろそろ諦めて、今日は引き上げるしかないようだと判断し、玄関に向かって歩き出す。


この部屋を見つけるのに、どれほど苦労したことだろう。数々の興信所に依頼を出し、あらゆるところへ手配をして、ようやく見つけたのが一年前だ。
どんな手を尽くしても、彼との連絡を取らなくてはならなかった。それが、彼女の使命でもあったのだ。話し合いは、ゆっくり歩み寄って慎重に進めなくては。
まだ、焦る時期ではない。退くタイミングを間違えずにいれば、後から突破口は見えてくるだろう。

部屋の灯りが、フッと消えたと同時に、閉じられた扉のオートロックが下りた。
ハイヒールの足音が、静かに部屋から遠のいて行った。


■■■


「おっさん、交替!」
急に上半身が肌寒くなったと感じたとたん、毛布代わりにしていたジャケットが誰かの手に寄ってはがされたことに気付いた。
睡魔から目覚めたばかりで、また若干ぼんやりしたまま重い身体を起こすと、テーブルの上に数冊のファイルが無造作に置かれていた。
「俺の仕事は一段落。あとは、それ、おっさんの仕事だから。ってことで、寝るから起こすなよな」
向かい側のソファに寝転がって、いくつかのクッションを抱えてイノリは夢の中に落ちた。

意識がはっきりしてきたのは、彼の寝息が聞こえ始めたころだったと思う。
ファイルに手を伸ばして、中に挟まれている書類に視線を落とした。
何度も何度も、消されては書き直された楽譜。ところどころにしわが出来ていたり、かすれて見づらい部分が数カ所あった。
赤いペンで添削したようなチェック。メロディーと歌詞のつなぎあわせ。
荒削りで、感情をそのまま形にしたような、彼らしい文字がびっしりと記されていた。
「まあ一晩中で、よくこんなにぽんぽんと歌詞が思いつくもんだねえ…」
無邪気に爆睡中のイノリを見て、友雅は感心したようにつぶやいた。

デビューアルバムに収録される曲のほとんどは、イノリが作詞作曲をこなしている。インディーズの頃から、オリジナルの殆どが彼の作だった。
メロディーが先に生まれるか、それとも歌詞を先に作って音を後から作るか。それは人それぞれであるだろうし、両方を併用しているアーティストも勿論いるだろう。
だが、同一人物が作詞と作曲を手がけるということは、完成度としては一番良いものが出来るだろうと友雅は思っていた。
歌詞にしてもメロディーにしても、生み出したその本人こそが一番しっくり来るイメージを持っているはずだからだ。
勿論、ビジネスとしてはそういうわけにもいかない、という現実もある。
だから今回、友雅がオリジナルをを提供することになったのだ。
友雅の役目は、作曲とプロデュース業務。新人アーティストを相手に仕事なんてものは、いつもなら面倒だからと断るはずなのだが。
食い下がられた根気に負けた、というのも理由の一つかもしれないが、それだけではない何かがあったのかもしれない。
現に、当初はさっさと終えてしまおうと思っていたはずなのに、かれこれ3ヶ月近くこんな生活が続いているのだが、それほど居心地が悪いとは思えなくなって来た。

手元にある、出来たばかりの歌詞を目で追ってみた。記憶されているメロディーを頭の中で蘇らせて、音にその言葉達を乗せてみる。
目新しい言葉が揃っているわけでもないのに、どこか新鮮な気持ちを起こさせる文字が揃っている。
あの音にこの言葉…それしかしっくりこないと思わせる程、歌詞とメロディーが一致しているイノリの発想力は、友雅にとって久しぶりに音楽活動が楽しいものなのだと
思わせるだけの力があった。

歌詞がまだ付いていない曲は、あと3曲。その中に、友雅の書き下ろした曲もある。
彼の中で生まれた言葉が、どんな風に自分の音に重なって行くのか。今から少しだけそれが楽しみだ。

■■■

「おかえり。あかねちゃん、久しぶりねえ」
玄関を開けると、天真の母が中から出迎えてくれた。あかねは軽く会釈をすると、スニーカーを脱ぎ捨てて先に上がっている天真の後を追いかけた。
「夕飯食べて行くでしょう?お寿司頼むけれど、あかねちゃんは何が良い?」
受話器を持ち上げた天真の母が、こちらを覗き込んだ。
「いえ、そんなに遅くまでお邪魔するつもりはなくて……」
と、あかねが言いかけたが、階段をあがろうとした天真が踊り場から叫んだ。
「特上にぎり5人前!あと、俺、中トロにぎり1人前も追加なー」
言いたいことだけ言って、天真の足音は上段に向かって遠のいて行った。


+++++


「うちの人に聞きたいことがあるんですって?」
入れたての熱い紅茶を、ポットごとテーブルの上に差し出してくれた天真の母の前で、あかねは小さくうなづいた。
「こないだ…頂いたお土産のことで、ちょっと気になることがあって…」
「ああ、ロンドンで買って来た?もしかして壊れたりしてた?」
「いいえ、そういうわけじゃないんですけど…」
知りたいのは、あのブローチの出所だ。
天真の父からもらったブローチと、先日友雅からもらったブローチ。それらを何度も見比べてみたが、一寸違わずに同じものだと分かった。
多分手作業での制作なのだろう。若干の作りの差はあるとはいえ、デザインもカラーリングも同じものだ。
そして、パッケージさえも。

何故、友雅と天真の父が、同じ物を買って来たのか。その共通点は、どんな意味があるのか。
気になるのは、友雅がこれをくれる時に言った言葉。
「知人にヨーロッパで買って来てもらったものだ」

天真の父は、それなりのネームバリューを持っているレコード会社の代表取締だ。
そして友雅は、詳しくは分からないけれど、おそらく音楽を仕事にしている人間だと思われる。
ならば、どこかで共通点が生まれても不思議じゃない。
もしかしたら、という言葉が何度も浮かんだ。もしかしたら……本当の友雅を知る人が、この身近な場所にいるかもしれない、と。

入れたての紅茶は少し熱くて、少しずつしか口をつけられなかった。
そうしているうちに、窓の外のパーキングにエンジン音が聞こえて、軽やかなドアホンの音がリビングにまで響いて来た。
「あらあら。思ったより早く帰って来たみたいねえ。急いでお寿司頼まないと…」
慌てて天真の母が、ダイニングから玄関へと向かった。賑やかな会話が廊下から聞こえて、リビングのガラスドアを開けると、最初に顔を出したのは天真の妹の蘭だった。
「あかねちゃん、いらっしゃい♪」
三つ編みにした長い黒髪が、しっぽのように腰の近くで揺れていた。
「今日はレッスンの日で遅くなると言われていたから、ちょっと遠回りして乗せて帰って来たよ。あかねちゃん、待たせて悪かったね」
「いいえ、そんなことないです。こっちこそ急にお邪魔してすいません」

出前注文の電話をかけている母、着替えを終えて降りて来た天真と、すれ違いに自室へと上がって行った蘭、奥の書斎兼自室に着替えに行った父。
いつものように、天真の家はにぎやかな光景が繰り広げられている。
幼い頃からずっと、そんな景色は変わらない。
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Megumi,Ka

suga