Daydream Believer

 第2話
「泊まり…って、あの…」
ぎこちない口調で、友雅に尋ね返す。ふっと笑って彼がこちらを見る。
「せっかくなのだから、このあとは二人きりで私の部屋で過ごすのも良いんじゃないかな?」
「そ、そ…それは…っ」
今度は動悸どころか、心臓が止まりそうな状態になっている。
キスであれだけパニックに陥ったというのに、今度はそんな誘いを仕掛けられて……一体どう対応すればいいのかさっぱり思い付かない。
「別に、私の部屋に泊まるのは初めてじゃないだろう?」
確かに思い起こせば、一度だけそんなこともあった。だが、それはホントにハプニングという状況でのことであって…。でも、今回はちょっとそれとは違うような気がしないでもなくて。
「私のベッドで朝を迎えたことだってあるのに。今更遠慮することも何もないし?」

一気にこれまでの記憶が、激流の如く押し寄せてきた。
生まれて初めての、たった一度の外泊。その夜を過ごした友雅の部屋の内部まで、しっかりと思い出されてきた。
そして、いつのまにか寄り添って眠っていた彼の横顔までも。
同年代の少女がときめくような、甘い朝の風景とは違ったものだけれど、それでもあかねにとっては充分ドキドキものの初体験に違いない。

「…ふっ」
両手で顔を覆ったまま、過去の記憶に翻弄されているあかねのそばで、友雅が笑う声が聞こえてきた。
「冗談だよ。そんなにびくびくしなくても、ちゃんと家まで送り届けてあげるから心配しなくて良いよ」
無邪気な笑顔が、緩いウェーブの長い髪の間から覗く。

………からかわれた!
そう思ったとたん、あかねは少しムッとした気分になったのだが、それでも今呼び起こさせられた記憶は現実のものであって、彼と一夜を過ごしたことは嘘じゃない。
これまではそんなに意識したことなかったのに、あんな風に口説き台詞みたいなことを言うものだから……異常なくらいに反応してしまったのだ。
大人の悪戯には、どうやったってかないっこない。あかねには、そんな悪戯を交わすほどの知識と経験などないに等しいのだから。

「ご機嫌を損ねてしまったかな?」
悪びれる気配などまったくなく、友雅が腰を低くしてあかねの顔を覗き込んだ。
「緊張して話も出来なくなってしまっていたようだったから、少しほぐしてあげようかと思ったのだけれど…逆効果だったかい?」
「…………」
友雅の観察は正しい。でも、あんなことを言われたら、気持ちをほぐすどころかパニックに陥ってしまう。それくらい敏感になっていたことくらい、察して欲しかったとか思ってしまう。
「怒らせてしまったのなら謝るよ。だけど、別に悪い意味でそんなことをしたわけじゃないことは、せめて分かって貰えると嬉しいのだけれどね。」
すっと伸びた友雅の手が、空になっていたあかねの紙コップを取り上げる。そして、さっきと同じように丸めてダッシュボックスへと放り投げたが、わずか数センチのところでこぼれ落ちた。
背中を向けて歩く肩から、髪の毛が揺らめいて流れる。かがんで手にしたカップを、目的の場所へ投げ入れた。
少し遠くで、アナウンスの声が聞こえる。それも、波の音の前では微弱で聞き取りにくくて気付かなかった。

「声が聞きたかったんだよ」
その声は、ちゃんと聞こえた。
友雅が振り向く。背後からの潮風を受けて、手すりにもたれながら片方の手だけをポケットに差し込んでいる。
「何かすれば、前のように話してくれるかと思ってね。突然しゃべらなくなってしまったから。」

話したくないわけじゃない。話しづらかっただけ。

「そばにいるのに声が聞こえないのはね、何となく寂しいものだから。そういう意味で、少し反応を見たくて悪戯をしただけだよ。悪気があったわけじゃないんだ。」

ポーン………
電子音が外まで聞こえてきた。二人の耳に、今度はしっかりと入ってくる。
『閉館10分前となりました。まもなく正面玄関をロック致しますので…………』

「もうそんな時間か…。せっかく来たのに、少ししかいられなかったね。」
ジャケットの袖から覗いたアンティーク調の腕時計を見ると、5時近いところまで針が進んでいた。入館した時間が遅かったのだから仕方がない。
「急ごうか。のんびりしていたら、閉じこめられてしまうよ。」
友雅はあかねを手招きすると、先に階段を下りていった。
その姿が視界から消えてしまうと、無性に焦ってしまってあかねは猛スピードで彼の後を追いかけた。

螺旋階段を駆け下りていくと、友雅は既に玄関ホールの自動ドアをくぐろうとしていた。辺りを見渡すと客の姿はなく、もしかするとあかねたちが一番最後の客だったのかもしれない。
自動ドアの前で、案内嬢が頭を下げた。入口の外に出ると、立ち止まっていた友雅にやっと追いついた。
「あの…っ」
全速力の後なので、息が少し途切れる。
「もう走らなくても良いよ。ここからは少しゆっくり歩いて戻ろう」
友雅の方がずっと年上なのに、息が荒いのはあかねの方というのは一体…。心臓がバクバクしているし、呼吸も乱れているあかねとは違って、友雅は一切息も呼吸も乱れていないのはどういうことか。
運動不足なのは自覚しているけれど、友雅だって…身体を鍛えているという感じには見えないのに。
「あの…私っ」
深呼吸を繰り返しているうちに、何とか息が整ってきた。手を伸ばして、彼の腕をつかむ。
「…怒ってなんか…ないです」
そう言えたとたんに、友雅が足を止めてくれた。

静まりかえった駐車場には、従業員の車と思われる数台の軽自動車しか見当たらない。夕暮れの時間を過ぎて、波の音は更に重々しく変化してゆく。
「それなら安心だ。じゃ、これからはいつものようにこっちを向いてもらいたいね。」
友雅の手が、すっとあかねの肩を引き寄せた。そして軽く背中を叩いてくれて、自然に足が一歩手前に動いた。
「私は君のあとを着いていく方が性に合っているみたいだ。面白い発見をしてくれるから、追いつくのが楽しみになるからね」
「…それじゃまるで私が、いつも落ち着かなくキョロキョロしてるみたいじゃないですかっ!」
くるっと振り返ると、友雅がそこで微笑んでいる。

「君はそれで良いんだよ」
彼は、一言そう言った。


■■■


当初の予定よりも遙かに時間が狂ってしまったせいで、ディナーはいつもの中心街へと戻ってからとなった。
本物の歴史を刻んだ洋館のアンティークには敵わないが、友雅が連れて行ってくれた小さなビストロも、落ち着いた雰囲気で隠れ家のような魅力があった。
「今日は色んな所に連れて行ってもらって、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、予定外のところに行くことが出来て楽しかったよ」
丁寧にポワレしたメインディッシュの魚料理も食べ終わり、ついさっきウェイターがデザートを運んできたところだ。真っ白なフロマージュブランが、瑞々しくライトの光を反射している。
今日は車なのでワインも遠慮したため、ほんの少しだけ口寂しい。友雅は濃いめのエスプレッソを注文してから、自分の分のデザートをそっとあかねの方へ差し出した。

「昔のあの屋敷に行くなんて、思ってもみなかったよ。二度と行くこともないと思っていたんだが……」
わずかな思い出をきっぱりと断ち切って、その存在さえも記憶から排除していたつもりでいたのに、いざその場に立ってみると色々な事を思い出してくるものだ。
だからと言って、それがさほど居心地の悪いものではないことも新しい発見だったと言える。
本当に、きっかけがなかったら…こんな経験はなかったに違いない。
「あんなに荒れた屋敷で悪かったね。君が思い描いていた雰囲気とは全く違っただろう?」
せめて庭くらい、手入れされていれば良かったのだが。まあ、空き家になって随分経つのだから仕方がない。
「ううん、全然そんなことないですよ。すごい広いお庭だったし、中だってちゃんとお掃除したら…すっごい綺麗なお屋敷に戻りそうだし」
「多分、中はもっと老朽化していてボロボロだと思うよ。掃除するにしても、一つの部屋が広すぎるし数もあったと思うから、簡単には無理だろうねえ」
「…もったいないなぁ…」
するっと喉越しを通り抜けるフロマージュブランは、甘酸っぱくて爽やかで、既に友雅に貰った分も手を付けようとしていた。
「私が住んでたら、絶対にあのまんまになんてしませんよ。毎日でもお掃除してぴかぴかにしちゃいますよ!」
本来掃除なんて苦手な部類に入るし、自分の部屋だっていつも母から整理整頓と口うるさく言われているくらいなのだが、あんな屋敷に住むとなったら別の話だ。
一つ一つの部屋を覗き込むたびに、何だかわくわくしてきて作業もはかどりそうな気がする。勿論、現実になったら大変だとは思うのだけれど。
「頼もしいね。君と一緒なら、もう一度あの屋敷に住んでもいいかな」
「………」
口の中にスプーンをほおばったまま、じっと友雅を見る。頬杖をついて、いつもと変わらない笑顔であかねを見ている。
「もう、その手には乗りません。からかっても無理ですよ」
「残念だ。真っ赤になった顔が可愛かったんだけれどねぇ。また違う作戦を考えようか」
濃いめのエスプレッソの入ったカップを手に、友雅がそう言った。

夜はすっかり更けていた。もうすぐこの店も、ラストオーダーとなる。



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Megumi,Ka

suga