Daydream Believer

 第1話
すでにランチの時間は過ぎていて、アクエリアムもあと数時間で閉館になるという時間になっていたのだが、二人を乗せた車は最初の目的地である半島の岬に向かって走っていた。
カーステレオからは、ジャズピアノのようなインストルメンタルが流れ続けている。ダッシュボードに無造作に置かれた何枚かのCDは、ボーカルの入ったものはない。だからこそ、気分が落ち着くというのもあるが…同乗者がいる場合は、会話がないと非常に気まずい。
屋敷を出てから、会話がほとんど交わされていない。それどころか、隣に座っているのに顔を見合わせることもない。
友雅は黙ってハンドルを握り、あかねはと言えば…代わり映えのしない窓の外の風景を、黙ってぼおっと眺めている。

……顔を見ることが出来ないのだ。声をかけることが出来ないのだ。…照れくさくて。まだ唇の感触が残っていて。
これではコーヒーの香りを感じるたびに、あの時のことを思い出してしまって赤面してしまいそうだ。
何も予測もしてなかったし、心の準備もなかった。
ただ、自然にそんな展開に流れていって、そうなることが当然だというように目を閉じていた。
一瞬何が起こったのか分からなくて、まるでストップモーションでもかかったかのように時が止まったような気がした。
どきどきしたとか緊張したとか、そんなこともまったくなくて。
むしろ……そのあとに彼が目の前にいるのを確認したとき、今の情景が他人事のように浮かんできて鼓動が早くなった。
はじめてのキスはエスプレッソの味で、そして…とても自然に訪れたことだけが記憶に焼き付いた。

それなのに、キスの感触はまだ消えないから、友雅と顔を合わせるのが何となく恥ずかしくて振り向けない。言葉もかけられない。
さっきまでは何でも話せたのに、たった一つのキスでこんなに空気が変わってしまうなんて…やはり自分が幼いからだろうか。
多分友雅にとっては、キスなんてものは他愛もないスキンシップの一つであって、そうそう気にするようなことではないのかもしれない。でも……あかねにとっては最初の大切な一瞬だったから。

「急に大人しくなってしまったね」
「はいっ!?」
友雅の声にびくっとして、慌てて反応する。
「車に酔ったかな?」
「い、いえ、そんなじゃないですっ」
「それなら良い。何せ久し振りのドライブだから、少し運転の腕も鈍っているかもしれないと思ってね。」
そう言って笑った友雅は、いつもと全く変わった雰囲気はない。変わっているのはあかねだけだ。意識しすぎている。
はじめて出会ったときから、妙に打ち解けて話すことが出来ていたのに……こんなに意識するのは初めて。

これからどうしよう。家に帰るまでは、まだまだ時間がある。それまでずっと、緊張したまま友雅の隣を歩いていかないといけないのか…と思うと困惑してしまう。
きっと普通に振る舞おうとしても、出来そうにない。そんな器用なことは出来ない。
どこかでまた、ふとあの瞬間を思い出してしまって……身体が強ばってしまう、きっと。


■■■


夕暮れにさしかかっているアクエリアムは、それほど賑わっている雰囲気はなかった。休日ならば家族連れなども多そうな気がするが、多分こんな時間では既に帰ってしまったのが殆どだろう。
見渡して見かけるのは、どちらかというと二人連れが多い。これから暮れてゆく時間を楽しめるのは、こういったカップルくらいだろう。
薄暗い館内の中は、巨大な水槽が壁一面に張り巡らせてあり、青白いランプが魚たちの優雅な動きを照らしている。名前も知らない色の綺麗な南国の熱帯魚は、まるで宝石のようだった。
イルカやアシカのショーは既に終わり、ひっそりしたアクエリアム。売店もいくつか開いているだけで、閉店しているのが殆どだ。
「やはり、来る時間が少し遅すぎたね」
先を歩いている友雅が、小さな水槽の中にいる青い魚を見てつぶやいた。

足下を小さなランプが照らしている。手前にいる友雅の踵を見ながら、後ろを着いていく。
時々肩を組みながら、水槽を眺めているカップルが目に入った。何て事もない風景なのに、何だか今日はどきどきする……。
「屋上のテラスが空いているみたいだね。そこで一休みをしようか」
広いホールの真ん中にある螺旋階段を見上げて、友雅が言った。三階建てのアクエリアムの屋上は、海を真正面に望めるテラスがあるとパンフレットに書いてあった。
喧噪のなくなった館内では、もう見て回るところなど数えるくらいしかない。賑やかすぎるのも苦手だが、殺風景に閑散としているのも味気ない。それなら自然の風景でも眺めながら、ゆっくり一休みするのも良い。


+++++


白いガラスドアを開けると、一気に海の香りが目の前に叩き付けられてきた。
遠くから聞こえる潮騒の音。テラスの向こうは、白い波を泳がせる水平線が広がっていた。
もっと時間が早くて天気さえ良ければ、真っ青な海が望めたことだろう。そして、夕暮れのオレンジ色に輝く水平線も見ることが出来たかも知れない。この天候では景色も台無しだ。
「いくら初夏とは言え、さすがにこの時間は寒くなるね。冷めないうちに飲むと良いよ。」
友雅がそう言って、熱い紙コップを手渡してくれた。
ふわりと潮風に混じって、あかねの鼻をくすぐった暖かい香り。…………どきん、として口に近づけると、またどきんと胸の鼓動が鳴り響いた。
どきどき…どきどき……早まるばかりで、落ち着かない鼓動。コーヒーの香り、エスプレッソの味。
手元にあるのはカフェオレだけれど、コーヒーの香りには間違いなくて。頭の中でその香りを感じると、再びあの時のことが浮かび上がってきてしまう。

「これから、どうしようか。もうすぐここも閉まってしまうし…この近くで夕飯にしようか?それとも市内に戻ってからにするかい?」
「あ、ど、どっちでも良いですっ…」
こくんと口を付けたコーヒーが、唇にまで残って……。寒いわけじゃないのに、身体が震える。
「寒いのかな?」
友雅が尋ねた。あかねは左右に首を振った。
むしろ、寒いの逆。身体全体が熱を発しているように熱い。特に顔なんて、トマトみたいな状態になっているんじゃないだろうか…見えないけれど。
「いくら広いからと言っても、そんなに離れないでもっと近くにおいで」
笑いながら友雅が手招きをする。彼とあかねの距離は……おおよそ5mくらいあるだろうか。意識しているわけではなかったが、いつのまにか後ずさりして、こんなに離れて座っている。
車の中では、助手席と運転席のごく至近距離。それから比べたら、とんでもない遠距離。彼の顔がはっきりと見えないくらい。
だって、彼の顔が見えてしまったら…きっとじっとしてられない。

いつまでたっても近づいてこないあかねに、しびれを切らしたのか友雅が足を進めてきた。
距離がどんどんと狭まっていく。逃げたくて一歩後ろに退いたが、生憎とすぐ後ろはフェンスがあって行き止まりだ。
友雅は近づいてくる。その足音に、あかねの鼓動の音が重なっていく。
そうしているうちに、友雅が目の前で立ち止まった。彼の顔がとてつもない至近距離まで近づく。さっきとはうって変わって、今度は顔全体が視界に入らないほどの近さ。彼の瞳しか見えないくらいの距離。
思い切りあかねは両目を閉じた。そしてぐっと息を止めて体をこわばらせる。

「そんなに頑なにされても困るな。さっきはもっと近づいても、そんなにカチカチになっていなかったのに。」
彼の手が、ぽん、と頭に触れた。
「キスまでしたのに、そんな素っ気ない態度を取られるとは悲しいねぇ」
笑いながらそんな事を言うものだから、またあの時の光景が浮かんできてパニックに陥る。
「私とでは、お気に召さなかった、ということかな?」
「そ、そんなんじゃないですよっ!!」
無意識のうちに大声を出してしまってから、慌ててあかねは口を手で覆った。
「と、友雅さんはっ…キ、キスなんて別にっ…たいしたことじゃないかもしれないですけどっ…!で、でも私はっ……」
冷たい潮風が頬をくすぐるのが心地良いのは、多分熱が上昇しているせい。冷えてしまったカフェオレも、喉を通ると冷たくて丁度良い。
「は、はじめてだったんですっ!!だ、だ、だからっ……まだどきどきしてるんですっ!!!」
少し身体を冷やさなくては、このままでは熱にうなされてしまいそうだ。

そんなあかねの事情など、友雅は全く理解してくれていない。
「そう?緊張していなかったように思えたけれどね?」
平然として、そんなことを言ってのける。
「そ、それははじめてだったからーっ…何も分からなくてぼーっとしてて……」
どうしていいか分からなかったのが本音。まさか、そんな展開になるとは思わなくて。
でも、逃げたいという気持ちもなかったのは事実。友雅が近づいてくると予感したときには、既に目を閉じていて……そうしてそのまま。
「随分とナチュラルな雰囲気で受け入れてくれたから、もしかして結構場数を踏んでいるのかな、なんて思ったりしたんだけれど?」
「そそそそそそっ……そんなこと、ありませんってばっ!!」
照れくささと興奮とで、あかねの顔はすっかり真っ赤なりんごのように色づいている。
キス一つがどれだけ彼女にとって大切なものなのか、友雅にとってはそんなあかねの様子が新鮮で、それでいてどことなく嬉しい気分にもなった。

「可愛いねぇ」
友雅のこぼした言葉に、赤い顔のままであかねが見返す。
「こ、子供だと思って…バカにしないでくださいよっ…」
分かってる。どれだけ自分が子供だってことくらいは。友雅から比べたら、何もかも未経験の赤ん坊というくらいの差があることも分かってる。でも、それを面と向かって言われると面白くない。
少しくらいは、対等に見て貰いたいという気もなきにしもあらずだから。

紙コップのコーヒーを、友雅が飲み干した。彼の手のひらでつぶれたカップは、ごみとなってダッシュボックスに放り投げられる。
「じゃあ、今夜は私のところに泊まっていくかい?」
------突然の誘いに、あかねは一瞬で凍り付いた。




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Megumi,Ka

suga