新しい風景

 第2話
もう少し町並みを眺めながら散歩してみたい、とのあかねのリクエストに対しては、友雅はすんなり受け入れてくれた。
まだ雨が降る気配もないし、遠くから潮騒の音も聞こえる。デートコースには最適のルートだが、人の気配が少ないので更に恋人同士が歩くにはムードが高まるという感じだ。
「お屋敷の大体は、カフェとか雑貨屋さんとかギャラリーになっているんですね。実際に住んでいる人なんていないのかな…?」
坂に沿って立ち並ぶ洋館は、一つ一つ個性的な形をしている。
教会のように塔がある屋敷や、ガラス張りのサンルームがある屋敷。ステンドグラスの飾り窓や、鎧戸の開き窓、屋根裏があるような天窓…。最近の日本で見られる洋風のモデルハウスとは、やはりどこか重厚感も造りも違うので見ているだけでも飽きない。

目の前から、小さな少年を連れた母親がやって来た。
栗毛色の優しいウェーブのかかった髪と、ビスクドールのような白い肌。ひとめで日本人ではないと分かる風貌。
一緒にいる息子らしき少年は、彼女よりも黒い髪で肌の色も少し濃いめだ。それでもくっきりした大きな瞳が、やはり純粋な日本人ではないのだと思わせる。
あかねたちの横を通り過ぎるとき、彼女は軽く礼をして微笑んだ。
「この辺に住んでいる人かな……」
彼女たちが離れていってから、そちらを振り返ってあかねがつぶやいた。
「昔の人達が誰も住んでいないわけではないだろうね。領事館にご先祖が勤めていて、そのままこの地に住み着いた外国人もいるだろうし。日本人よりも古い屋敷や家具にはこだわる人が多いから、もしかしたらまだこの辺の洋館に住んでいる人もいるかもしれないよ」
「へえ……。」

異国情緒がどことなく残る町。横浜や神戸などの異人館が並ぶ町とは少し雰囲気が違うが、日本の土地にしっくり馴染んでいるのが妙に心地よい景色を生み出している。
三角屋根の洋館があると思えば、少し道を折れると昔からある瓦葺きの日本家屋があったりするが、それが違和感を感じさせない不思議な町だ。
「良いなあ…あんなお屋敷に住めたら素敵」
さらさらした髪を足取りと同時に揺らしながら、あかねが夢見がちにそんな事を言った。
「住んでみると、色々と大変だよ。手入れしなければ傷んでいくばかりだし、建具とかも海外のものだと取り寄せになってしまうから、すぐに修理なんて出来ない。結構不便なものだよ?」
友雅が現実的なことを言うと、くるっとあかねが振り返って人差し指を一本目の前で揺らした。
「それは、住んだことのある友雅さんだから言えるんですよ。私なんか、あんなお屋敷なんて博物館とか美術館とか、そういうところでしか見たことないですもん。夢のまた夢の世界ですもん。だから憧れちゃうんですよ。」

そんなものか、と友雅は改めて思った。
生まれて一番最初に知ったのは、あの屋敷の中の風景。いつだって最初の記憶は、サンルームから差し込む日差しや緑色の芝生だった。
それが当然のようにそこにあったのだから、珍しい感じなど何もなかったのだが、他人から見るとそんなものも貴重に思えるのかもしれない。
「やっぱりそういうのに興味があるのは、女の子だねえと思ってしまうね」
「そりゃそうですよ。小さいころに読んだ童話とかで、王子様とお姫様が住んでいるお城とかの絵を見て、いいなあって思いましたもん。天蓋がついてるベッドとかー、バルコニーいっぱいにお花が咲いてるとか…。」
絵本の中は、いつも夢の世界だった。子供の頃は、本気でいつか王子様や妖精たちに逢える時が来ると思っていた。
「お姫様のドレスとかにも憧れたりした?」
「もちろんですよー。七五三ではじめてドレス着せてもらって、嬉しかったの今でも覚えてますから!」
初めて紅を差して化粧をして貰ったときは、少しだけ大人になったような気がして、何となくわくわくした気分だった。
今はそんな夢を見ることもないし、化粧だって自分で出来るようになったけれど。それでも初めての時の思い出は鮮明で色褪せることはない。

「屋敷の中…は入れるかどうか分からないけれど、昔住んでいた屋敷がまだ残っていると思うのだけど…」
ふと、今思い付いたように友雅がそんなことを言った。
「え?この近くですか?」
「いや…もう少し先だな。ここよりももっと離れた、辺鄙なところにあるはずだな。誰かが住んでいるという話は聞かないから、空き家になっていると思うけれど…」
友雅があの家を出てから、十年後には誰も住む人がいなくなったと聞いている。空き家として売りには出しているが、買い手が着かずに老朽化が日々を追う毎に進み、未だに放置されたままだ。
「良いんですか?!」
「……良いよ。君なら連れて行っても構わないよ。」
こんなに嬉しそうにされては、連れて行かないわけにもいかないだろう。


■■■


車に戻って、そこから10分ほど高台に向かう。更に海がはっきりと眺められる場所までやってきて、その近くで友雅は車を停めた。
森が鬱蒼と背景に広がり、家同士は密集しておらず点々としている。さっきまで歩いていた町よりも、更にここは人気が少ないようだ。
あかねは友雅のあとを着いていく。彼が幼い頃の記憶を辿っているのを、黙って着いて歩いた。

やっと彼が立ち止まったところで、あかねは追いついて足を止めた。
「随分と…寂れてしまって。住む人がいないのでは、仕方がないか」
彼が見上げた場所を、同じように見上げた。
ベージュ色の横板の壁、チョコレート色の窓枠。鎧戸のついた開き窓が二階のベランダに見える。鬱蒼と茂った木々が、屋敷まで覆い隠そうと空に向かって伸びていた。
雑草の向こうに見える庭先の芝生は荒れ放題で、綺麗な細工の入った窓ガラスもほこりだらけだ。ひびが入っているところさえある。
友雅の言うとおり、随分と長い期間家主を失った空き家という感じがする。

手を掛けて手前に何度か動かしてみるが、門は錆び付いていて簡単に開きそうにはない。友雅の身長ならば、何とか越えられる高さではある。
仕方がないので友雅は軽く塀に手をかけて、その門を飛び越えて中へと入り込んだ。
「おいで。手を貸してあげるよ」
そう言いながら手を出されたので、てっきり引っ張り上げてくれるものだと思っていたのだが、予告もなくあかねは腰をつかまれてふわりと軽々抱きかかえられた。
「きゃ…」
声を出そうとしたのだが、すぐに地に下ろされてしまったので騒ぐタイミングを失った。まあ、おかげでスカートで塀をまたぐという暴挙をしなくても済んだのだけれど。


中に入ると、更に緑の香りがつんと漂ってくる。身体中、どこかしらが緑に触れているほど生い茂っている雑草のせいだ。
友雅は玄関のドアに目を遣ったが、そこには「立ち入り禁止」の看板が貼られていた。だが、これもまた錆び付いていて文字がはっきりと見えない。
「これじゃ、ここから入るのは無理だな」
そう確認すると、今度は庭に続くテラスに向かって歩き出した。
「私のあとを着いておいで。雑草がすごいから、足下には気を付けて」
あかねは草をかき分けて、前に進んだ。ジャングルの奥地というのは、こういう感じなのだろうか…と思うくらいの荒れた木々の伸び具合。足を踏みしめると小枝の折れる音と、ガサガサと擦れ合う葉の音が常に耳に入った。

やっとのことで光の入る場所までやって来ると、そこは庭につながるテラスが見えてきた。五角形の張り出したテラス一面に窓が広がり、中から庭を眺めることが出来る。
見た目は凝っていて美しいのだが、壁の白いペンキは剥げ落ちて、窓枠は軋んで荒れ果てていた。
突き当たりのドアノブに手を掛けると、友雅は何度かドア枠を叩いた。
しかし、内側から鍵が掛かっているのかもしれない。いくら動かしてもドアはびくともしない。
「残念だけれど、ちょっと中に入るのは無理みたいだね。せっかくここまで連れてきたのに、悪かったね」
「え?ううん、平気です。だって…古くなってるけど、外から見るだけでも綺麗なお屋敷だから……」
そう答えて、あかねはもう一度屋敷を見上げてみた。

森の中に佇む洋館。こんな童話の絵を、何度か見たことがある。何の話だったか覚えていないけれど。
あちこちが衰えて傷んではいるけれど、それでもあかねが小さい頃に見た世界が現実にそこにある。間違いなく。

あかねが屋敷を眺めている間、友雅はぼんやりとガラスのひび割れを見つめた。
物心が付かない時代は、この屋敷の中でもそれなりに楽しく過ごせていた。改まってこうして傷み放題のままになっている姿を見ると、見捨てられているようで少し気の毒にも思えてくる。
そういえば、テラス側の庭は荒れ放題で森のようになってしまっているが、この先の広い裏庭なら少しはましな光景が残っているかも知れない。
小綺麗に花で彩られていた昔の光景は、もう見られないかもしれないけれど。
「ちょっと場所を移動しようか。向こうの庭なら、もう少し綺麗かもしれないよ」
友雅はそう言って、再び草をかき分けて歩き出した。




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Megumi,Ka

suga