新しい風景

 第1話
車はいつしか、海沿いに面した高速を走り続けていた。遠くに見える海岸線も波も、天気が悪いとあまり綺麗には見えない。
ワイパーが緩やかに動いて、フロントガラスに降り注ぐ小雨の粒を払い除けていく。
日曜は比較的渋滞する道だが、今日はすいすいとスピードを上げて走ることが出来た。
「これから行くところ、まだ教えてくれないんですか?」
助手席に座っているあかねが、ハンドルを握る友雅に尋ねる。
「着いてからのお楽しみだからね。」
「えー?ヒントだけでもくれませんか?どんなところなのか、とか…ちょっとだけ」
指先でリアクションするあかねの仕草が可愛くて、思わず友雅の顔がほころんだ。が、なかなか彼の口は固い。
それに、友雅にとっては楽しめるような場所ではないから、何とも答えようがない。
「そんなに期待してもらえるような所ではないんだけれどね……」
せいぜい、そんな風に言うくらいしか形容詞が見つからなかった。

何年ぶりになる?いや…もう十年以上は訪れていないと思う。その証拠に、自分の記憶の中にこびりついている情景とは違った景色があちこちに見られる。
時間が過ぎると言うことは、目に映るものをここまで変化させてしまうものだろうかと、少しだけ驚きつつハンドルを握っている。
こんなに小綺麗な町並みなんて覚えていない。自分が覚えているのは…さびれた町並みとうっそうとした緑。
ぽつんぽつんと建っている古めかしい洋館は相変わらずだけれど、それぞれの庭は綺麗に調えられていて花が飾られている。まるで外国の田舎町のような感じだ。

「何だか…素敵な風景。オシャレな建物がたくさんあるし…。」
窓の外を眺めているあかねが、キョロキョロしながら物珍しそうにそう言った。

………素敵な風景…ね。そんな風に思ったことなんて、一度もなかったな。
友雅はあかねの言葉を聞いて、少し新鮮な気持ちを覚えた。

「どうしようか?ここからもうしばらく半島沿いに走っていくと、アクエリアムがあるんだけれど…行ってみるかい?それとも、どこかでお茶でもしていこうか?」
ふと、車内の時計を見ると午前11時。まだランチには早い時間だが、少し落ち着いてお茶をするには良い時間だ。
それに、友雅はかれこれ1時間ほどハンドルを握りっぱなしだ。渋滞に巻き込まれてはいないけれど、そろそろ疲れを感じてくる頃かもしれない。
「さっき、あちこちのお屋敷がカフェになってるところ、ありましたけど…。その辺りでお茶しません?」
運転していたせいもあったのだが、看板を見るよりも景色の変化に気を取られていたので、カフェがあったことなど友雅は気付かなかった。古いとはいえ、洋館は重厚感のあるアンティークな様式美が残っている。カフェやギャラリーには似合っているのかもしれない。
「それじゃ、少し戻ってみようか」
すぐ先の道を横に反れて、二人を乗せた車は来た道をゆっくりとUターンしていった。


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海岸線沿いにある駐車場に車を止めると、小雨はすでに上がっていた。
だが、雲の雰囲気ではこれからまた降り出すことも充分予想される。今日はそんな不安定な天気だ。
「えっと…確か、向こうにある白い屋根のお屋敷のちょっと先に、可愛い洋館があったと思うんですけどー……」
はじめてやって来たあかねの方が、友雅よりも先に歩き出した。

道を歩く人影はまばらだ。時折犬の散歩に歩く人とすれ違う程度。深い緑の芝生と、アンティーク調の凝ったワイヤー細工のフェンスが屋敷を取り囲む。
つる薔薇がうっそうと壁一面に巻き付いて、淡いピンクの花を無数に咲かせていた。
少しゆるやかな坂を歩いていくと、イングリッシュガーデンと言うに相応しい庭先の向こうに、海が望むことが出来る。天気が良ければ、真っ青な水平線が眩しく輝くことだろう。
おとぎ話の挿絵に出てきそうな、そんな町並み。日本とは思えない、優雅な雰囲気が海岸沿いの町に溶け込んで存在している。

「こんなところが町中から一時間くらいであったの、知らなかったー……」
あかねの爪先がリズムを刻むように、辺りを見渡しながら楽しそうに前を歩く。やはり、彼女を連れてきて正解だったなと友雅は思った。
一人だったら、二度とこの町に来ることなどなかったかもしれない。
「あ、そこのお屋敷ですよ!さっき車から見つけたお店!」
指を差した方向には、白い壁と紺色の屋根がが印象的な洋館があった。広い芝生の中にテラコッタのような煉瓦を敷き詰めて、館内に続く遊歩道が作られている。入口にはアーチが立てられ、白い薔薇がくるりと巻き付いて咲いていた。
足早に向かうあかねのあとをゆっくり着いていきながら、その景色を目に映す。

昔、そういえばこんな屋敷を見たことがあったような気がする。遙か遠い記憶は時の流れて殆どが消え失せてしまっているが、実際に目の中に飛び込んでくると一瞬何かを思い出させるものだ。
先に着いたあかねがドアを開ける。深い真鍮のドアベルが響いた。

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ローズウッドの色調で揃えられた店内は、クラシックの流れる静かな空気が広がっていた。
店の主人はまだ若く、最近になってこの屋敷を買い取ってカフェを始めたらしい。夫婦と知人の3人で経営している、こじんまりとしたカフェだが雰囲気は良い。
「でも、すごいですね。お店の中の調度品って全部一緒に売りに出されてたって…。ということは、みんなアンティークの年代物なのかなぁ…」
「そうだね。この辺りの洋館に住んでいたのは、大体は幕末明治頃の領事館勤務の外国人だったというからね。そうなると、この辺の屋敷やこんな家具とかも100年くらい前の古いものが殆どだろうね。」
エスプレッソを口に付けながら、友雅はそうあかねに言った。
「大概はもう、空き家になっているか…または、こうして何かの店舗になっているか。実際に住居として住んでいる人は、もう殆どいないんじゃないのかな。」
窓辺に飾られたランプの明かりが、キャンドルライトのように輝いている。

「友雅さん、ここに住んでたことがあるんですか?」
プレートのレアチーズケーキが、半分残っている。シトロンソーダの中で、氷がいくつか泳いでいる。
「どうして?」
「だって……この辺りのこととか、詳しいし。それに、こんな素敵な町なのに、別にそんなに珍しくない、みたいな感じだったから…」

なるほど。なかなか彼女は、他人の様子をしっかりを見ている。
確かにこんな、郊外の場所についてあれこれと話をすれば、そう思うのは当然だろうし、ある程度の地理が詳しくなければ、こんな場所に連れてくる者などあまりいないだろう。
「ずっと前のことだよ。あまりにも前のことだから、風景も変わってしまっているからね。今となっては、新しい土地に来たのと同じようなものだよ。」

この町に住んでいたのは、生まれてからの数年間。物心着く前に離れてしまったから、親しい者も誰もいやしない。
たった5年くらいの子供時代に、刻むことの出来る記憶は皆無に等しい。無意識のうちに覚えている物事も、そんなに多く記憶に留めるのは無理だ。
それに、あまり良い印象がこの町にはない。自分が生まれた町だという記憶だけで充分だ。

「昔のことを聞こうとしても、無理だよ?生憎と、本当に全然覚えていることなんて何もないんだ」
何か色々と聞きたそうな顔をしているあかねを見て、友雅はさらっと交わしてみせた。
年頃の少女だから、こんな西洋風の洒落た雰囲気には興味があるのだろう。それに加えて、目の前にいる自分がここの生まれということなら、あれこれ知りたいことや聞きたいこともあるだろうが、楽しそうにしている彼女にとっては、友雅のこの地での記憶は何一つ楽しくないだろう。
わざわざ口にすることでもないし、それで彼女を曇らせるのも申し訳ない。せっかくの休日なのだから。
「もう一つケーキの追加、するかい?」
ホールの真ん中には、手作りのケーキが数種類揃ったショーケースが置かれている。すべて夫人の手作りだそうだ。
「あ、良いです…」
あかねは、手元のチーズケーキにフォークを添えた。
それからほんの少しの時間で、グラスのジュースとケーキはすべて空になった。

+++++

一休みを終えて外に出ると、幸いまだ雨は止んだままだった。
「じゃあ、これからアクエリアムに向かおうか」
ジャケットを羽織って後ろを振り返ると、何となく覇気のないあかねの姿が見えた。
「どうかしたのかい?もっと休んでいたかったかな?」
あかねは左右に首を振った。

「もしかして、ここでお茶しようなんて言っちゃって…友雅さん、迷惑でした?」
水平線の覗く洋館の前で、立ち止まったあかねの言葉に友雅は少し驚いた。
「何故そんなことを?私はそんなこと思っていないけれど…」
「だって、友雅さん…ここの場所に良い想い出とかないから、何も言いたくないのかなと思って。もしそうだったとしたら、ここに来るのって辛かったんじゃないかなって…」

思惑が外れてしまったようだ。選択を間違えたか。気を遣ったはずが、返って彼女に気を遣わせることになってしまったらしい。
わざと余計な会話を避けていたはずだったのだけれど、逆にそれを彼女は気にしてしまったようだ。
「そんなことはないよ。確かにまあ、話したいような記憶はないけれどもね。来ることは嫌ではなかったよ」
上目づかいに友雅を見上げるあかねの瞳が、潤んでいるように見えて、珍しく心が揺らぐ。
「来ることが嫌なら、この辺りにまで連れてくることはないしね。本当に話すことがなかったから、何も言わなかっただけだ。そんなに気にすることはないよ。」
一人ならやりきれない場所でも、二人ならそうでもない。
そばにいる誰かが喜ぶ顔があるとすれば、こんな土地でも悪い気はしない。
「私のことについては何も答えることはないけれどね。町についてなら、知っていることであれば教えてあげるよ。たいしたガイドは出来ないだろうけれど。」
そう言って、友雅は手を差し出した。
「ホントに……迷惑じゃないですか?」
まだ、たどたどしい表情でこちらを見る。
「私こそ、こんな遠くまで連れてきてしまって迷惑じゃないか気になるところだよ」
「私は全然…そんなことは」
重ねたあかねの手を、引き寄せて強く握りしめる。

「それじゃ、デートを再開しようか」
友雅が優しく微笑んでくれたので、やっとあかねはホッとして彼の歩幅に追いつくことが出来た。



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Megumi,Ka

suga