残像の温度

 第3話
予想よりも帰りが遅くなったので、母に小言の一つでも言われるかと思って警戒していたのだが、あろうことか母は上機嫌であかねの帰りを出迎えた。
それには勿論理由がある。

「あなたが出掛けている間に、学校の先生から電話があってね」
何かまずいことでもやっただろうか…?と、記憶を紐解いてみたが思い当たる節はない。それは考えすぎだったようだ。
「成績、随分と上がってきているって。春頃は煮詰まっていたようだったけれど、最近はそういう雰囲気もなくて、無理なく良い調子だって言っていたわよ」
自分では全くそんなこと、気付いていなかった。ただ、塾でのテストがコンスタントに点数を取れるようになってきたとは思っていたが、成績が上がったという意識はなかった。
「このままなら、余裕で志望校に合格出来そうですよ、って。安心してください、って。お母さん、ホッとしちゃったわよ〜。最初、学校から電話なんて言うから、びっくりしたもの!」
そりゃそうだ、とあかねも納得した。あかね本人だって『学校から電話が』なんて言われたら、良からぬことばかりを考えてしまう。
しかし、まあそういうことなら安心だ。成績が上がったのなら更に安心というものだ。


確かに春先頃は煮詰まっていた。上を目指そうと思うあまりに空回りばかりして、焦って先に進む道を間違えて、そして引き返しの連続だったように思う。
それが最近はあまりなくて。無理してでも、という感覚がなくなってきて。ただ目の前にあることを、しっかりやって行けばいいという呑気とも言える考えが出来るようになってきていた。
その頃からかもしれない。テストの点数が上がったり、すんなりと勉強が進むようになってきたのは。
あと考えられるのは…………。思い出して、何となく頬がほのかに熱くなった。

週末のテストで上位に入れないと、日曜日に補習を受けなくてはいけないから。それだけはどうしても避けたいので、結構そこら辺はがむしゃらだったような気がしないでもない。
成績が悪かったから補習を受けないといけないので、なんて言えないし…それに、そんなことを連絡する手だてもない。
週に一度だけしか逢える機会がないのだから、そんな貴重な一日をキャンセルなんてことはしたくないから。
不純な動機かもしれないが、そんな想いが良い方向へ作用しているのだから良しとしよう。

それにしても、今思えばあの頃が嘘のようだ。八方塞がりで身動き取れずに、前を向けない自分を見て情けなくなったりしていた日。今はそんな気は全然ない。このまま今の状態が続けば、冬の本格的な追い込みも無茶しなくても良さそうだ。
部屋に戻ったあかねは、机の椅子の背もたれに掛けてあるストールを手に取った。
このストールが活躍する頃には、受験も終わっているかもしれない。もしも志望校に合格出来たとしたら……それはきっとこのストールのおかげ。
いや、このストールをくれた彼のおかげ。


その頃、彼の奏でるあかねの心の音は、どんな風に変化しているのだろう。
そして今、彼にはあかねの音がどんな風に聞こえているのだろう。
ゆっくりと着実に暖まっていくその心を、彼は気付いているだろうか。


■■■


屋根を打つ音に気付いたのは、外が明るくなりつつある明け方だった。
そっとカーテンを開けた窓の向こうは、グレイッシュブルーの空。絹糸の小雨が降り続いている。止むような気配はない。
「…雨かぁ。これじゃ海と水族館はキャンセルだぁ…」
残念ながらあかねの提案した(半分アレンジしてくれたのは友雅だが)コースは却下となってしまった。友雅の方に天気は味方したらしい。
「でも、まあいっか…」
天気の悪さを見ても、あっさりと諦めがついた。これでデートがキャンセルになるというわけでもないし。ただ、コースを友雅にお任せ、ということになるだけのことだ。
一応こういう時のために、雨の場合と晴れの場合の洋服のコーディネートも済ませてあるし、困ることはあまりない。
それに、友雅がどこに連れて行ってくれるのかも、何となく楽しみでもあるのだ。
あかねとは生活も世代も違うから、趣味や嗜好も友雅の選択は新鮮であるし、いつもは出掛けられないところも彼と一緒なら安心して足を踏み入れられる。

まだ時計は朝早い時間を差しているが、あかねはベッドから下りて思い切り身体を伸ばした。
そして目覚ましも兼ねて、朝のシャワーを浴びに階下のバスルームへと向かった。


■■■


約束の時間は午前9時と設定した。いつもよりも1時間ほど早いが、少々遠出となると早い方がいいだろうとのことで、つい昨日決まったばかりだ。
ブラインドで遮られているが、窓の外は雨だ。彼女には悪いが、今日は友雅のデートコースに軍配が上がった。
「……あんな場所でも、彼女と一緒だったらまんざら悪くもないかな」
薄いラベンダー色のコットンシャツを肌に羽織って、適当にボタンをはめた後に生成色のサマージャケットを手にする。
雨では汚れが気になりそうな格好ではあるが、そういうことはあまり気にしない。ただ、その時に着たいものを着るのが友雅の信条だ。それに、車なら汚れることもあまりないだろう。

そろそろ出掛けても良い時間だ。滅多に運転することのないアウディのキーをポケットに突っ込んで、友雅は足早に地下の駐車場へと向かっていった。
その直後、部屋の留守番電話機能が動き出したが、彼がそれに気付くはずもなかった。


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まあ、おかしくはない格好だと思う。雨の割にはそんなに寒くはないし、サンダルの足の爪先にはサーモンピンクのペディキュアをしっかり塗ってきたし。
ただ、どこに連れて行かれるか分からないから、早々カジュアルな格好も出来ないのでジーパンはアウト。細かいレース編みのカーディガンとキャミソール、ライトグリーンのスカート。それに合わせたグリーンの傘。ちょっとくらい大人っぽいお店でも、まあ何とかセーフ?
ショーウインドウに映る自分を見ながら、髪の毛を整えつつ服装をチェックする。

いつもの待ち合わせ場所だった詩紋のバイト先のカフェは、今週日曜日はお休み。今回の待ち合わせ場所は駅前、ということなのだが。
雨とはいえ、日曜日の駅前はやはり人が多い。まだ朝早いから人もまばらだが、これからどんどん混雑してくるかもしれない。

「おはよう。夏らしいスタイルが可愛いらしいね」
突然、ショーウインドウに映った自分の姿の後ろに、背の高い男性が映ってはっとした。
「あ、おはようございます!」
慌てて後ろを振り向いた。
「あいにくの雨になってしまったね。残念ながらアクエリアムコースはお預けだ。約束通り、今日は私の希望コースに付き合って貰うけれど、構わないかな?」
「はい、よろしくお願いします!」
はきはきと答えるあかねは、こんな雨空の下でも太陽のように明るい。どんなに天気が悪かろうと、彼女がそばにいればいつも晴れ晴れとした気分でいられるだろう。
「それじゃ、着いておいで」
友雅は指で合図をすると、先にさっさと歩いていってしまった。
駅前の通りを抜けて、裏手の国道沿いに向かう。一体どこに行くつもりなんだろうか………と、彼のあとを黙って追いかけていると、広い道の歩道に友雅が立っていた。
「どうぞ。今日はドライバー付きだよ。」
そう言って友雅が、助手席のドアを開けた。つまり、あかねに『乗れ』ということだろう。
「……あ、あの…これ、友雅さんの……?」
「そうだよ。滅多に乗らないんだけれどね、一応足代わりにはなるから。」

左ハンドル。父親の車に乗るときは、必ず左から乗るのだけれど、これは…右。つまり外車。3ナンバーの艶やかな紺色のボディは、雨のしずくを宝石のように弾いて輝かせている。
「早く乗らないと、足下が濡れてしまうよ」
既に運転席に乗っている友雅に急かされて、あかねは慌てて助手席に乗り込んだ。



---THE END---




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Megumi,Ka

suga