残像の温度

 第2話
「じゃ、天気が悪かったときは…友雅さんの行きたいところですよ?どこに行きたいですか?」
今度はあかねが尋ねる番だ。
友雅の行きたいところ、と言っても、いつも大概エスコートしてくれるのは彼の方だから、普段とあまり変わりのないことになりそうな気がするのだが。
「……行きたいところねぇ……」
声がとぎれたあと、しばらく沈黙の時間が流れた。

行きたいところなんて、別に思い当たらない。旅などにも興味はないし、新しい店を開拓するなんて趣味もない。自慢出来るほどのグルメでもないし、こういうことを尋ねられると、非常に答えに困ってしまう。
では、考え方を変えてみよう。…………そう思ってあかねを見る。
自分が行きたいところではなくて、彼女を連れて行きたいところはどこか?そう考えてみよう。
常に白紙状態の自分は、どんなところに行ってもいくらだって順応が効く。ならば、彼女がどんなところに連れて行ってやれば喜ぶか。
…彼女の行きたいところだけ聞けば、それだけで十分なのだけれど。


連れて行きたいところ。
ふと、頭の中にとある場所が浮かんだ。今まで思い出したこともないような、記憶の奥底に沈んでしまった場所だ。
何故、今になってそんなところを思い出したんだろう。
もう何年も…いや、十年以上訪れたことさえないというのに。


「それは内緒にしておこうかな。明日雨が降ったら、のお楽しみにしておこう。」
カチャンと空のカップをソーサーに戻して、友雅はあかねに笑顔を返した。
「あ、ずるいですよー。教えてくれても良いのに…」
「雨の日は鬱陶しいからね。でも、何があるか分からないというお楽しみがあれば、少しは気分も浮かれたりしないかい?」
何となく上手い具合に言いくるめられてしまったような気がするけれど、それもまた一理あるので、これまた反論が難しくなる。

本当はいつだって、土曜日の夜は浮かれている。明日逢えると思うだけで、気持ちがわくわくどきどきしてる。
どこに連れて行かれるか、じゃなくて。一週間ぶりに逢える、その姿を思い出して気持ちが早まる。毎週毎週、そんな週末の繰り返し。
多分、友雅は気付いていないだろうけれど。





「じゃ、明日の天気が楽しみだね」
あっという間のティータイムは、既に時計が6時近くになるまで続いていた。そのせいで雨はすっかり小雨になり、外を歩いても濡れるような心配はなくなった。
店の前から駅の近くまであかねを送って行きながら、友雅はまだどんよりしている空を見上げた。果たして明日は晴れるか、それともこの雲がまだ停滞するか。
それは全て、今日の偶然をもたらした神のみぞ知る。
「また明日」
バスに乗り込む前に、友雅がそう言った。はじめて聞くその言葉は、あかねにはとても新鮮だった。


■■■


不思議なもので、熱いコーヒーで暖まったかと思ったのだが、一人になったとたんに小雨が身体に染みこむように冷え込んできた。
友雅は足早に部屋に帰り、即座に熱いシャワーを全身に浴びた。
やっと身体が暖まって、ホッと我に返った。思えば今日は徹夜明けで、眠くなるほど疲労があったはず。それは何故かもう消えている。
長い髪をタオルで無造作に拭いて、バスローブ一枚を羽織ってバスルームを出る。
リビングに向かい、カウンターの向こうにある冷蔵庫からワインのミニボトルを一本取り出した。そして、ふと気付いた。

「理由はどうあれ、自分のいない部屋に入り込まれるのは…あまり気分は良くないねぇ」
コップをペーパーウェイト代わりに置かれているメモ用紙を見つけて、友雅は面倒くさそうに電話の受話器を取った。


『ずいぶんとお忙しいようでございますね』
事務的な無駄のない声が、電話越しから聞こえてきた。
「これでも社会人だからね。仕事をしなくては生活出来ないから仕方がないさ」
向こう岸の声が、冷ややかに笑った。
「それよりも、無断で人の部屋に入り込むのは好かないな。せめて一言くらい連絡してからお願いしたかったよ」
思いっきり嫌みを含めて友雅は言った。見られて困るようなものはたいしてないが、それでもプライベートの一部である生活空間を、無断で他人に入り込まれるのは気分が良くない。
『そうしたいのは山々でございましたが、連絡先が分かりませんでしたので。携帯電話の一つでも持っていて下されば、私もお電話差し上げました。または、現在のお仕事場の連絡先でも教えて下されば………』
「そこまで君に干渉される理由はないはずだよ」
きっぱりと友雅は切り捨てるように、それでいて威圧のある口調で言う。大の大人がそこまで他人に管理されて生きるなんて、まっぴらごめんだ。
だからこそ、ここに一人だけの城を借りたというのに。
「ランドリーの処理と部屋の掃除は有り難いけれどもね。しかし、それだけの理由でやってきたわけじゃないだろうに?用件を言ったらどうなんだい。」
さっさと電話を切らせてくれ。こんな面倒な会話をのんびり続けていたら、せっかく消えた疲労が更に蓄積されてくる。

『先日お送り致しました、弁護士からの書類はお目を通して頂けましたか?』
友雅は湿った髪を掻き上げながら、テーブルの上に置きっぱなしにされている未開封の書類封筒を見た。
「部屋に入ったなら分かるだろう?まだ封も切っていないよ」
そう友雅が言うと、向こう側の声は呆れたように溜息をついた。
『出来る限り早くお目を通して下さいませ。終わりましたら、すぐに私共の方へご連絡下さいますようお願いいたします』
「…はいはい。それじゃ、あとでまた」
適当に気のない返事をして、友雅は一方的に電話を切った。ミニボトルを一気に飲み干して、さっき目を向けた書類を手にした。

分厚い紙が詰まって膨らんだ封筒。お偉い弁護士様の名前が明記されている。
「どっちみち見なくたって、中の内容は既に散々見せられているものじゃないか…」
結局友雅は封筒を開けないまま、ほったらかしにして奥の寝室へと向かった。

バスローブ同様に洗濯が済ませてあるベッドファブリックからは、ほのかに石けんの香りがした。
何もかも忘れて、今夜はこのまま眠りについてしまおう。そして、明日の朝を楽しみに待とう。

もちろん、今日の神様の悪戯だけは忘れずに胸に抱いたまま、目を閉じてしまおう。

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Megumi,Ka

suga