残像の温度

 第1話
偶然の出来事が神様の気まぐれな悪戯であるのならば、それらを咎めることなど出来やしない。
思いがけないトラブルもあれば、予想もしない巡り逢いだって偶然のひとつ。
そう、こんなふうに。


つい今し方ラッピングしてもらったばかりのケーキが詰まった箱を、あかねは両手で抱えていたはずだったのに。それは何故か目の前にいる人の手に支えられている。
グレイブラウンのジャケットの肩に、雨の滴がきらきらと光っていた。
彼は、あかねの手にケーキの箱を戻した。
「買い物でも頼まれたのかな?」
揺れた髪の毛先から、小さな水滴がしたたり落ちた。
「あ、そうです…。お母さんが出掛けるので、お土産に持っていくからって頼まれて……」
本当はここよりも近いお店があったのだが、この店には詩紋もいるし。それにあかねも何度かこの店のケーキは味わっているので、どれが美味しいものか把握しているつもりだったので、敢えて少し遠いのを承知でやって来たのだ。
雨が降ってきていたから、ホントは駅ビルのお店で妥協しようと思ったのだけれど……ここまで傘を差しつつやって来て正解だった。
この店で一番美味しいケーキも3つだけ残っていたし、それに………こんな展開が待っているなんて思わなかった。

「友雅さんは…お仕事の最中ですか?」
「ああ、私はまた徹夜の仕事が終わったところだよ。部屋に帰る前に、コーヒーでも飲もうかと立ち寄ったんだけれどもね。そこでこんな偶然があるとは思ってもみなかったよ」
本当に、予想もしなかった。
逢えるのは明日なのだと、信じて疑わなかったのに。

『また会おう』は、『また来週の日曜日に会おう』の意味。毎週日曜の夕刻時、別れ際に彼女にそう約束して新しい一週間が始まる。
次に会うまでに7日間。お互いの電話番号も知らない二人にとって、どれだけ会いたいと思っても7日間を挟まなければ会うことが出来ない。そう思っていた。
しかし、それが覆されるのが偶然というものの楽しみ。

「これからすぐに帰るのかい?」
友雅は、無意識のうちに目の前のあかねにそう尋ねた。
「今日はおつかいを頼まれただけなんで……」
現在の時刻はだいたい午後4時。このあと駅からバスに乗って…家に着くのは大体5時くらいだろうか。
とは言え、今の季節の午後5時はまだ陽が高い。こんな小雨の日でも、早々に夜の気配が漂うことはない。そう考えながらどこか寄り道をしたとしても、まあ6時くらいに帰宅すれば母も文句は言わないだろう。
寄り道とは言っても駅ビル周辺くらい。本屋とか雑貨屋を覗いたりするくらいで、特別な買い物をすることもないだろうし、そのまますぐにバスに乗って帰ってもいいわけで……。
つまり、寄り道コースは自分次第というわけだ。あかねの意向でどうにでもなる。

カラカラン、と金属の涼しげな音が響いた。それと同時に、ドアの開くきしみ音。
「用事がなければ、コーヒー一杯くらい付き合ってくれる気はないかな?」
片手ですでにドアを開けた友雅が、振り返ってそう言った。
そう、寄り道コースは自由に選べる。
友雅のその言葉を、きっとどこかで期待していたに違いない。


■■■


あかねの目の前に差し出されたアップルパイは、まさに今さっきオーブンから出てきたばかりの焼きたてだ。パイ皮からこぼれ落ちるりんごのプレザーブからは湯気が上がり、添えられたバニラアイスは熱でゆっくりとソース状に溶けかかってきている。
「これ、食べたいな〜と思ってたんですけど、お店に来たときは売り切れだったんですよ。なのにこうして食べられるなんて、すごいラッキー!」
一口一口をじっくり味わいながら、あかねは感激の言葉をつぶやく。
「あの時は品切れだったから、追加分を焼いているところだったんだよ。丁度あかねちゃんが帰ってすぐくらいに一つ焼き上がって。もう少し早めに焼けてたらご馳走出来たのになーって思ったんだ」
紅茶のおかわりを持ってきた詩紋が、カップを取り替えながらそう説明してくれた。
そうは言っても、ほんの5〜6分の時間が挟まれただけだ。たったそれだけなのに、こうまで状況が変わるなんて信じられない。
「あのまま帰さないで、こうしてお茶に誘って正解だったね。」
友雅はそう言って、カップの中の熱いキリマンジャロを口に含んだ。


「さて。こうやって偶然にも出会ってしまったわけだし」
あかねのアップルパイが姿を消したことを確認してから、友雅が話を切りだした。
「せっかくだから、明日の予定でも話し合っておこうか?」
週に一度の約束が突然一日早くやってきたとしても、だからと言って元の約束をキャンセルするつもりはない。それはそれ、これはこれ。増えた一日はサービスだと思って受け入れる。
「どこか行きたいところとか、ないかい?少し遠くても連れて行ってあげられるところなら、どこでも構わないよ」
前もって予定をたてるなんてこと、滅多にないことであるから。早いうちに決めておけば、それだけ時間のロスも少なくなる。
まあ、二人でいるのだから、そんな行き先を考える時間もロスという気はしないのだが。

「行きたいところ…ですかー…」
問われたあかねの方は、思わず首をかしげた。
どこかに行きたいと行っても、すぐには思い付かないものだ。それに、今日のように明日も天気が悪かったとしたら、行きたいところを決めていても変更せざるを得ないことになってしまうかもしれないし。
「じゃ…天気が良かったときと悪かったときと、二つ選んでおきませんか?」
天気が良い場合はあかねの行きたいところを、雨が降った場合は友雅が行きたいところを。そうやって決めておけば当日迷うこともなさそうだ。
「面白いね、なかなかの名案だ。」
友雅は満足そうに笑って、あかねの提案を快く了承した。

「それじゃ………うーん…」
明日晴れたら、どこに行こうか。せっかくの天気ならば屋内よりも屋外が良いだろうか。友達同士ならアミューズメントパークに即行なのだが、やっぱり友雅ではそんなものは子供っぽくて付き合ってもらえないかもしれない、と考えてしまう。
「…じゃ、海とか」
あまりにも代わり映えしないお決まりのコースだが、いつも町中で過ごしているのが殆どであるから、たまには少し遠出くらいしても良いかな、と思ったのだけれど友雅はどうだろうか。
様子を伺おうと視線を戻すと、スピーディーな答えが帰ってきた。
「そろそろ夏だろうし、海は混雑すると思うよ。天気が良ければ尚更なんじゃないかな。せっかくのデートで、あまり人の多いところもムードがないと思わないかい?」
「あ、そーですよね……」
納得行く答えなので、どうも反論も出来ない。しかし、あっさり切り捨てられてしまったのが結構ショックだったのだろうか。がっくりして何となく気が抜けてしまった。
じゃあどこなら良いんだろう。他に行けるような場所…人があまり多くなくて…………。

と、考えている途中で今度は友雅が口を開いた。
「どうせなら海の近くのアクエリアムはどうだい?水槽の周りは人が多くても騒がしくはないし、薄暗くて結構ムードもあると思うよ。」
そういえば海の近くにあった水族館が、新装されて巨大なアミューズメントパークとなったと聞いたことがあった。小さい頃は連れて行かれたが、最近は全く縁がなくなってしまっている。
「まあ、海に人が多いかどうかは行ってみないと分からないしね。人がまばらだったら海岸に下りればいいし。それなら君の希望も叶えられるよ?」

海に行きたい、なんて思いつきだったのに。
それをいとも簡単に、立派なデートコースに調理してしまう早業。最初のあかねの希望を崩さないように、アレンジを加えてくれている。
文句のしようがないデートコース。あかねの希望はそれ以外にはもう何も出てこなかった。


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Megumi,Ka

suga