雨に歌えば

 第2話
貫くような激しいギターの音が止まり、それとほぼ同時に歌声が消えた。
「ご苦労さん。」
ミキシングルームからスタッフの労いの声が聞こえると、にじんだ汗をこするように手で払いながら、イノリはヘッドフォンを外した。
「良かったよー。激しい切なさっていうのが表現されてて、良い感じだったよ。」
スタッフからは安堵にも似た誉め言葉が投げかけられたのだが、歌っている当の本人であるイノリは、とてもホッとする余裕はまだない。

「橘さん、どうです?これでOKってことで良いんじゃないですか?」
ディレクターの隣に、ずっと腕を組んだまま腰を下ろしてこっちを見ている男がいる。
表情は最初から、殆ど変わることなどない。
どことなく穏やかそうに微笑んでいるのだが、何か企てているような信用置けない表情。
彼はイノリがレコーディング中でも、黙って体勢を崩さなかった。

「リテイク、だね」
びっくりするような呆れたような顔で、ディレクターが身を強ばらせた。
「た、橘さん…もう今日で6回ですよ?最初はともかくとして、もう十分良い感じだと思ったんですけどねえ?」
「マシになってきている、というくらいかな。もっと理想的に歌えるはずだと思うよ。それは私だけじゃなくて、彼自身もそう思っているんじゃないのかな?」
友雅はディレクターにそう答えると、邪気もなく微笑んでイノリに向かって手を軽く振ってみせた。
「し、しかしですね…もうレコーディングの時間も押してきてますしね?昨日からもう何十回と録り直ししてますし、一曲にこれ以上の時間をかけてはスケジュールの問題が…」
どうにかそれなり、のレベルで切り上げたい一心のスタッフは、逃げ腰になりながら必死で友雅の説得に当たっている。
だが、敢えなく彼らの努力は無駄となった。

「じゃ、もう一回だな」
「えっ!!」
そう応答したのはイノリ本人だった。
今度はスタッフの目が、外したばかりのヘッドフォンに手を伸ばすイノリに向けられた。
「次はどーなるかわかんないけどさ、取り敢えずそこのおっさんが満足するまでやってやるしかないじゃん」
「ええーっ!?」
がっくり肩を落とすスタッフとは正反対に、友雅はガラスの向こうでにっこりと微笑んでいた。

さっきのテイクで、一番納得行かなかったのはイノリ自身だった。
もう少し最後を切なく歌えば良かった、と。終わったあとに思ったのはイノリだったのだ。
多分、そんな自分の後悔を友雅は見逃さなかった。だから、もう一度歌えと言ったに違いない。
今度歌う時には、完璧に歌ってやる。
イノリはそう気合いを入れて、もう一度マイクに向かった。

不思議なもので、イノリが何か一つでも歌い方に疑問が残ったときは、必ず友雅からリテイクの声がかかる。
逆に満足行ったときは、ワンテイクでも友雅はOKをくれる。
感情が分かりやすい自分がいけないのか、それとも友雅が他人の心理を掴むのが上手いのか。
両方という答えも確かにあるのだが、そんな状況を理解しはじめてから、以前のような衝突もなくなったし、リテイクの多さに憤慨しているスタッフも、あとからチェックしてみると全員が100%の満足度をあらわしてくる。
友雅の言葉に従っていれば間違いはない。
そんな風になんとなく感じられてきた。
そして、自分が満足行くように歌わせてくれていることに、メジャーデビュー作ということで緊張していた自分が、自由に歌えるようになったこともあきらかな事実なのだ。


■■■


レコーディングプランを明記したノートを見ると、今日のレコーディングでやっと三分の二の歌入れが終わったことになる。
アルバム収録の曲数は十五曲。仕上がったのは十曲。しかし残りの五曲に関しては、未だにオケ録りさえ終わっていない。
「ったく、アンタがあーだこーだ言うから、スケジュールが延び延びになってんじゃん。ホントに発売日にアルバム出せるのか不安になってきたぜ」
スタッフの一人がビルの一階にあるファーストフード店に出向き、買ってきたばかりのポテトをほおばりながらイノリが文句を叩くと、それに対して友雅は熱いコーヒーを紙コップですすりながら答える。
「君の声を見込んでこそのリテイクなんだけれどもねえ。もっと良い感じに歌えるんじゃないかと、つい欲が出てしまってねぇ。」
「はん。ひとまわりも年下のガキに、ゴマすってんじゃねーよ」
切り返しながらもどことなくイノリの顔は照れくさそうで、まんざら不機嫌というわけでもなさそうだ。

友雅は嘘を言っているわけではない。イノリの歌声は回を重ねるごとに輝きが増してくる。もう一度歌えばそれ以上の仕上がりを残す。だからこそ何度もリテイクを繰り返しているわけであって、これでも最低限のところで妥協をしているくらいだ。
外見はアイドルでもやっていけそうなメリハリの良いルックスをしているが、音楽センスは良い意味で裏切られた。てっきりライトな今時のタレントという方向性かと思っていたが、今時珍しい有望株だと言って良い。
こんなスター性と音楽性を兼ね備えた人間など、なかなか見つかるものではない。そうなると、彼らをスカウトした森村の選択眼というのは鋭いのかもしれない。

『適当にこなすわけにも行かなくなったな』
いつのまにか友雅は、そんなことを考えるようになっていた。


「どうもお疲れさまです。レコーディングも捗っているようですね。」
休憩室でリラックス中のイノリと友雅の元に、顔を出してきたのは森村だった。
「まあ、順調に進展しているようですよ。」
「このおっさんに付き合わされて、スタッフのヤツラはぐうの音上げてるみたいだけどもさ」
連携を伴うようにして二人が言うと、森村は苦笑しながらも微笑ましく互いの顔を眺めた。
「クオリティの高さを重視するのであれば結構なことです。発売日を延期してでも、是非お二人の素晴らしい仕上がりを聞かせて頂きたいものですからね」
奇才と異名を取るミュージシャンの友雅と、ライブハウスでも熱狂的な人気を誇るイノリ。音楽の方向性は全く違うが、だからこその新鮮なサウンドがきっと一つの魅力的な音を作り上げるはずだ。森村は、そんな自分のカンを信じていた。


「ところで、明日のスケジュールはオケ録りで…イノリくんはお休みなのですが。橘さんはレコーディングにご参加されますよね?」
明日は日曜日。元々なら今日の土曜日がオケ録りの予定だったのだが、ボーカルのレコーディングが日数を要してしまったせいで、スケジュールが崩れてしまったのだ。
編曲をも一部着手している友雅であるから、こういった現場には立ち会うのが当然ではある。
普通なら友雅も、そうしていたに違いない。

「申し訳ありませんが、日曜日は予定がありましてね。残念ながらこちらに来ることは無理なんだ。」
「えっ?どうしても…来られませんか!?」
森村は何とか友雅に来て欲しいという、困った表情を浮かべている。しかし彼は頑なに答えを変えようとはしなかった。
「先客があるんだよ。日曜は私にとっても大切な癒しの一日だから、この日を取り消しにすることは出来ないんだよ。悪いね。」
ぱきっと言い切って友雅は再びコーヒーを手にしたが、森村としてはやはりすんなりうなずけない心境である。
スケジュールは押しに押しているし、出来る限りは時間短縮をしたいという考えもある。

「ま、いいんじゃん?今更一日くらい遅れたってたいしたことないって。一日くらい気ままに休ませてやるくらい労ってやらないとさ。もう若くないんだしー」
考え込んでいる森村に、容赦なくつっこみを入れてきたのはイノリだった。
「大目にみてやってくれって。機嫌損ねると、この仕事やめるとか言い出しかねないぜ?このおっさんは」
イノリが連続技で森村を畳み込む。
確かに彼が言うとおり……気まぐれな友雅のことだから、そんな展開もあり得ないことはなくて…。

「分かりました。では、月曜には必ずいらして下さい。」
「ここまで仕上がってきては、途中で投げ出すわけにはいかないからね。」
泣く泣く森村は折れることとなった。
そんな彼を見ながら、友雅への援護射撃をした張本人のイノリは、気の毒に…と部外者のような目で森村をいたわった。

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Megumi,Ka

suga