雨に歌えば

 第1話
「この暑い時期に、何て格好してるの?」
母はドアを開けたとたん、あかねの姿を見て呆れたようにそう言った。

すっかり夏らしい風が漂うようになった今日この頃。
半袖のアウターは勿論のこと、そろそろスニーカーからミュールやサンダルへと足下の装いも変わる時期だ。
なのにあかねはと言えば、柔らかな肌ざわりの暖かそうなストールにくるまって、ベッドの上に寝転がっている。
とは言っても、その下はTシャツにショートパンツという夏向き部屋着ではあるが。
「いくらお休みの日だからって寝過ぎじゃないの?。早く起きてシャキッとしなさい。」
まだ寝ぼけてぼんやりしているあかねを見て、母は小言をつぶやきながら窓に掛かるカーテンをぱっと開けた。


外は晴天だ。ガラス越しには真っ青な空。そして、部屋全体に差し込んでくる眩しい日差し。
ちらりと見た時計の針は、午前10時を過ぎたくらいだった。この時間でこの日差しとなれば、午後にはかなり暑くなるだろう。
一つ大きなあくびをして、思い切り身体を伸ばす。くるまっていたストールを広げて、あかねはきちんと折りたたみ始めた。
そんなあかねの様子を見て、母が不思議そうに尋ねた。


「あなた、そんなストール持ってた?」
びくっとして母の顔を伺う。
「ど、どうして?」
「だって…あまり見覚えがない様な気がするから……」
優しそうなレモンイエロー。そして、素人目にも分かる仕立ての良さ。
安物とはとても思えない代物に、母の目は不審そうにこちらを見ている。
「と、友達の…お姉ちゃんのお古貰ったの。新しいのを買ったからいらないって。友達はあまり好きじゃない色だっていうから…私が貰っちゃったの。」
信じて貰えるかどうかは分からないにしても、取り敢えずはそんな思いつきのウソで誤魔化すしか頭が働かない。
母はしげしげとストールに目をやる。
「随分と高いものなんじゃないの?そんなのただで貰っては失礼なんじゃない?」
そんなことは今更言われなくても分かっている。
だからと言って、この値段に見合うお返しなんて見つかるわけもなく。そもそもあかねが自由に使える予算なんて底が知れている。
すると、母が意外なことを言い出した。
「今度会いに行くときは前もって言いなさい。手ぶらでは申し訳ないじゃないの。お金出すからお礼に何か買って持って行きなさい」
そう言って、ぱたんとドアを閉めて母は部屋を出ていった。

『らっきー!次に友雅さんに逢うときの資金繰り、なんとかなりそう♪』
怪我の功名というにはちょっと違う気もするが、まあ何とか事は丸くおさまったようだ。
それに加えて、プラスアルファもついて。



ひとりになって、あかねは折り畳んだストールをもう一度手に持って頬ずりをする。
しっとりした柔らかい毛は、肌を一瞬たりとも傷付けることなどない。シルクのように艶やかで、暖かいぬくもりが感じられる。
ここのところ、ずっとこのストールにくるまって眠っているあかねだった。
まだストールが活躍する時期までは時間がかかるが、それでもしまい込んでしまうには勿体なくて、暑い日が続くというのに手放せないでいる。
そんな自分の姿を見ていると、『スヌーピー』のライナスを思い浮かべて笑ってしまう。
記憶の中にいる彼も、安心毛布を常に手放すことなく、いつも引きずって歩いていたっけ。

………あかねにとっては、このストールこそが安心毛布。どこかに友雅の残り香がありそうな気がして手放せない。
お店に並んでいたものを目の前で包んでくれたのだから、そんなことあるわけないのだけれど。
でも、そばに友雅がいるような気がするから、やはりしまい込めないままで今日に至っている。

月々のお小遣いを切りつめたところで、こんな品物を買えるまでには一年はかかりそうだ。それほどのものを、値段も見ないでパッと買ってプレゼントしてしまうなんて。
あの時の友雅の行動を思い出しながら、あかねはいろいろなことを考えてみる。
『やっぱりお金持ちなんだろうなあ…』

一度だけ泊まったことのある友雅の部屋も、必要最低限のみの素っ気ないインテリアだったけれど、その一つ一つは機能的なセンスの良いデザインだったし、思っているより高価そうだった。
ベッドのシーツもシルクだったし、ドアはもちろんのことオートロックだったし、建物自体が見た目もクオリティ高そうな都会的なマンション。しかも最上階。
友雅はいつだって過剰に気を張ることもなく、あかねにごく自然に向かい合ってくれるけれど、もしかしたら本当はあかねのような普通の高校生なんかが相手に出来るほど、軽々しい身分ではないのかもしれない。
価値観も生活習慣も何もかも違っていて、だからこそ彼にとってはあかねのような庶民の感覚が新鮮で面白いのかもしれないけれど。

友雅の本当の姿を、あかねはまだ知らない。
ただ、音楽を生業として生活しているということ。つまり、それは芸能界の人間ということだけれども、芸能人と言ってもピンからキリまでいるわけだから、彼がどの程度の地位なのかは知らない。


『橘 友雅』

あかねは彼の名前を今まで聞いたことはなかった。
彼と出会って、彼が自分で名前を告げて初めて知った名前だ。
容姿も同じだ。
頻繁に芸能雑誌や音楽番組を見ているわけでもないが、比較的それでも一般的な知識くらいはあると自負しているし。
初めて聞いた名前。そして姿。明らかにあの時初対面だったのは間違いない。
けれど、何故かとても話しやすくて。
そして、逢うととても嬉しくなって。
倍近くも離れた年令差が二人の間にはあるのに、そんなことさえ忘れてしまうほど。
すべては、琴線のように胸にシンクロする彼の奏でる音のせいなんだろうか。



ベランダに出て深呼吸をすると、夏草の香りが身体全体を浄化させていくようだ。
わずかに浮かぶ雲は風に乗り、ゆっくりとしたスピードで青空の中を流れていく。

「明日の日曜日もお天気だと良いなー」
日曜日は友雅と約束の日。一週間前に決めた、次に会う日。
そして明日は、その次の約束をする日。
毎週その繰り返し。たった1日だけれど、あかねにとって一番待ち焦がれる日だ。
梅雨はまだ明けないけれど、せめて日曜日くらいはお天気になって欲しい。雨だからと言って、気分が滅入ったりすることはないのだけれど。


「あかねー!用事ないんだったら、午後からおつかいに行って来てちょうだい!」
ふとベランダから下を見下ろしてみると、庭先で洗濯物を干していた母がこちらを見上げて叫んでいる。
少しだけ夏の一面を垣間見た土曜日。
本格的な夏は、すぐそこまで来ているらしい。


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Megumi,Ka

suga