立ち止まる時間(とき)

 第3話
以前ここにやって来たのは、もう何十年前のことだろう。
物心もろくに着かない頃、祖父と訪れた記憶がおぼろげにある。
しかし今となっては、随分辺りも建物も変貌してしまった。

「昔はね、確か工房も木造だったよ。本当に職人が働いている、工房らしい工房だった。」
祖父が亡くなり、しばらくして頼久が会社の代表を任された時に、建物は近代的なデザインに変わった。
天窓から明るい陽射しが差し込み、広々としたフロアには、職人各自の仕事場が配置されている。
「それでも内装のイメージは、昔の建物の雰囲気にまとめたのですよ。」
頼久はそう言いながら、ドアを開けて中へと案内した。

外はコンクリートやガラスを使っていながら、工房内部は白木造りの明るいナチュラル感。
窓を開けると、ログハウスのように丸太を組んだデッキが広がり、周囲の緑を眺めながら休憩できる。
「作り手が心地良い気分で作業が出来なくては、良い音を出せる楽器は作れない----と、祖父がいつも言っておりました。」
「ふふ…それは、うちの祖父からの受け売りだろう。彼も昔、同じようなことを言っていたから。」

-----------職人だけじゃなくて、それは演奏する者も同じ。
重い気分で奏でる音は、どんよりしていて澄んだ音になれない。
音は、人の気持ち次第でいくらでも変わる。
技術が優れているからと言って、良い音とは限らない。---------

三つかそこらの子どもに対し、そんな難しいことを祖父は話していた。
まったく当時は理解出来なかったが、こうして成長してからも、あの言葉が頭の中に焼き付いていて。
改めて、その意味を自分で考えられるようになった。
祖父が言い聞かせていたことも、無駄ではなかったということか。

「せっかくですから、私の部屋ではなく、工房でお話致しましょうか」
「仕事の邪魔になるんじゃないか?」
「いえ、道具などは整理してありますから、平気ですよ。」
今日は週に一度の定休日。
職人は誰もいないし、その分工房は静まり返っている。
「何となく面影の残るこちらの方が、橘さんとしても心地良いでしょう。」
頼久はそう話したあと、友雅を置いて部屋を出て行った。
定休日のため、事務員なども出勤していないから、自分で飲み物を用意しに行ったのだろう。

面影の残る場所か。
一度か二度の訪問じゃ、あまり思い出らしいものもないけど…。
それでも、窓から見える木々の風景は、何となく懐かしいような気もするかも。
何十年経っても、変わらないものもあるってことか。
頼久に伝えられていた言葉のように、小さくても不変なものが存在する。
記憶や、言葉や、心や…そして音や。
人が消えてしまっても、不思議とそういうものは残り続ける。




工房であるから、客を応対するようなものはない。
作業椅子をふたつ用意して、二人は窓に近い場所に腰を下ろした。
「------さて。それでは本題に入ろうか。用件、聞かせてもらうよ。」
コーヒーに数回口をつけ、友雅はわざと身体の力を抜いた。

「橘さんも薄々気付いておられるでしょうが、『Orangea』の会社経営についてのことです。」
……やはり、その話題だったか、と友雅は思った。
「で?世界でも有名な楽器メーカー様の経営が、どうしたって?随分と景気が良いって聞いているけど?」
「売上等に関しては、おっしゃるように何も問題はございません。」
だったら結構な話じゃないか、と友雅は言葉を終える。
あちらの会社の話題が上がる時は、いつもどこか突き放すような態度を取る。
「ですが、未だに次の社長が決まらないことが、相変わらず問題視されているようですね。」
「なるほど、そうだろうねえ。あっちにも、頼久みたいな敏腕社員がいれば、抜擢出来るだろうにねえ。」
冗談を言うように、軽く友雅は答える。
どうして社長が決まらないか。
その意味を、彼が一番よく分かっているのに。

「シアトルから帰国の途に着く前に…シリンさんとお話させて頂きました。」
頼久が切り出すと、それまで目を背けていた友雅が、少し反応を見せた。
まさか頼久が彼女と会っているなんて、微塵にも考えたこともなかったのだろう。
「先日株主総会があったらしいのですが、その席で株主の方々から厳しい意見が出たそうで。」
正式な社長が就任しないまま、社長代理が表向きの責任者として経営に携わり、かれこれ既に5年が過ぎている。
経営は常に順調だが、社長のいない会社なんてどうなのか、と疑問視する者も以前から少なくはなかった。
そんな状況も、前社長が逝去して1〜2年ほどなら、大目に見るものが殆どだった。
しかし5年も経って、未だに新社長就任の話もない。
会社はどんな経営を考えているのか、先が不安でならない…と。
「最近は一部の株主から、一年以内に後継者が正式に決まらないようなら、今後手を引くという強気な意見もあるようで…」
「だから、ちゃんと有能な者を選別して、新社長を選べば良いだろうに。」
あっちは世界に名を馳せる企業だし、従業員数も多い。
上層部になら経営を専門に学んでいる者が、一人や二人いるだろう。
そこから人選すれば、あっさり解決するはずなのだが。

「それが出来ないことは、橘さんが一番御存知でしょう。お父様の遺言状の効力が、そこにあるからですよ。」
顔を上げた頼久は、真っ直ぐに友雅の顔を見ている。
母の意向もあり、父の葬儀にさえも出席しなかったほど完全な絶縁だった。
父が亡くなった後、実家に弁護士が頻繁に来ていたようだが、友雅は既に家を出ていたので、直接的な話は何も聞いていない。
二年前に母が亡くなった時、久々に実家へ戻った時にも、親類からは特に伝えられることもなかった。
だが、しばらくしてシリンが訪ねて来て……
「『実はお父上が、橘さんに遺言状を残されております』って。いきなりだよ。」
会った事もない金髪の美女が、何を目的にやって来たのかと思ったら。
しかもその遺言状には、会社の今後を自分に任せたいと書いてあるとかで、自分には次期社長の権利が与えられているのだ…と。
離婚した妻との子どもに、会社を継がせる…なんて、よくありがちなお家騒動。
すっかり縁が切れていると思っていたのに、まさか自分が巻き込まれるとは。
「生憎そういう面倒くさいのは嫌いだしね。だから無視していたけど…君も知っているとおり、しつこくてねえ」
時には押し掛け女房みたいに、部屋に立ち入ってくる。
掃除やら洗濯やら、恩着せがましくこなしてゆく。
そういう図々しさとしつこさに嫌気が差して、男女の関係なんて全く考えられなかった。

「それで、あちこちを点々と引っ越されていたのですか」
「信頼のおける業者を頼りにね。」
芸能界ではプライベート情報を隠密に、賃貸物件を借りる者も少なくない。
その手のルートを通せば、外部に一切友雅の情報を漏らさずに、引っ越し先を探すことも可能なのである。
「携帯もこれまでは持たなかった。場所を弁えず追い掛けられてるようで、気分が悪くてね。」
マンションに通じている電話+FAXのみが、彼と連絡が取れる唯一の方法。
パソコンも持たず、携帯なんてもってのほかだと思っていた。

「でも、今は------これが私の、心の拠り所かな。」
友雅は自分の手の中にある、シンプルな携帯を包むように握りしめた。
一人だけの電話番号。一人だけのメールアドレス。
彼女と自分をつなぐもの。
他に誰の情報もいらない。彼女のことだけが、詰まった一台の携帯。
時折声を聞き、送られてくるメールに表情がほころぶ……そんなくりかえし。
たったそれだけのことが、胸の奥を暖めて、視界をクリアにしてくれる。
今となっては、かけがえのない大切なものになっている。



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Megumi,Ka

suga