With You

 第2話
「橘さん、これから食事に行くのですが、ご一緒にどうですか?」
打ち合わせを終えた午後9時10分。
スタジオの戸締まりを終えてロビーに下りると、イノリのマネージャーが玄関前に車を回していた。
「食事か…どうしようかな」
さほど食欲があるわけじゃないが、何か胃の中に放り込んでおく必要はある。
だが、帰って自分で用意するのも面倒…というのが本音。
そこに、イノリが後ろから顔を出す。
「平日は家に帰ったって、寂しくおっさん一人だろ〜?食ってったら?」
彼の表情には、ニヤリと何かを含んだ笑みが浮かんでいる。

彼女が用意してくれたものは、まだ冷蔵庫には残っているんだけどね。
毎朝、パン一切れに少しだけスープを暖めて食するくらいだが、それが毎日続いていること自体が珍しい。
そんな支度も面倒くさいことには変わりないのに、それがあまり苦にならないのが不思議なほど。
おかしなものだな…。
ひっそりと日常を思い出しながら、友雅は何気なくポケットに手を入れた。


「おーい!おっさーん!すき焼きだってさ、すき焼きー!!」
先に車に乗り込んでいたイノリが、窓から顔を出して大声で友雅を呼ぶ。
しかし彼はと言えば、エントランスの前で携帯を手にしたまま、ずっとそこに立ち尽くしている。
「橘さん、急用でも入ったのかな」
運転席にいたマネージャーがそう言うと、彼が足早にこちらへ歩いて来る。
友雅が乗りこむために、イノリは反対側のドアを開けた。
が、彼は車の外で、運転席から顔を出したマネージャーに話す。
「申し訳ないけど、やっぱり私は家に帰るよ」
「何か、急なお仕事でも入りましたか?」
「いや…そういうわけじゃないんだけど。ちょっとすぐにでも、連絡を取らないといけない相手がいてね…」
友雅の手は、ポケットの中にある携帯を握りしめている。
それを見たイノリの中に、ピンとひらめくものが浮かんだ。

「悪いね。それじゃ、私は急ぐから。」
余計な会話もなく、彼はすぐに背を向けて立ち去って行く。行先はおそらく、裏手にある駐車場か。
「さーて。じゃあ早く飯食いに行こうぜー!」
首を傾げているマネージャーを急かし、イノリは車を出発させる。
多分、友雅が急に予定を変更すると言い出す理由は、たったひとつ。
……いくら相手がおっさんでも、こういうコトを邪魔するのは野暮だもんなー。
走り出した車の後ろで、そんなことを考えながらイノリは口元を綻ばせた。


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午後9時を過ぎると、駅前もすっかり明かりが減ってくる。
そのせいか、あちこちに派手な看板が目立ち始め、違った意味で賑やかな夜の風景が広がってゆく。
もう何件目になるか分からない、リーズナブルなファーストフード店。
近くに学習塾があるので、こんな時間でも学生の姿が目に入るから、他の店よりは少しだけ気が楽だ。
けれども、店を点々としながらフードをつまみ続けたせいで、全く空腹感もない。
だからと言って、ドリンクもさすがに飲み飽きた。
ろくに進まない紙コップのコーヒーを無視し、暇つぶしに参考書を取り出しては、ぱらぱらとめくる。
"塾に通う学生"に見えるように。

店の奥では塾帰りの学生が二人、方程式についてディスカッションしている。
以前は自分も、あんな風に勉強を重ねて、大学生になることだけを目指していた。
その先には、空洞しかないことに気付かないまま。
……でも今はもう違う。
求めていた未来が、しっかりと自分の目に映っている。
…諦めたくないよ。
これまで歩いてきた道とは違う方向だけれど、諦めたりなんかしない…誰が何て言ったって。
どれだけ時間が掛かろうと、本気で立ち向かいたい、失いたくない。

でも、それを分かってもらうには、どうすれば良いんだろう…。
所詮自分は、まだ未成年の子どもで。
保護者である両親の了解が、あらゆる面に必要な未完成の人間。
……そう思うと、歯がゆくて、心苦しくて、どうして良いか分からなくなる。


「…あ…っ」
トレイの隅に置いていた携帯が、カタカタと震え始めた。
点滅している着信ランプは、ルピーのような赤い色。
掛けてきた相手が分かるように、いくつかの色を分けて設定している。
この赤が点滅する時は…………その相手は…。

「……もしもし」
おそるおそる通話ボタンを押して、耳に携帯を当てる。
『良かった。時間が経っていたから、もう繋がらないかと思っていたよ。』
耳から流れ込んでくる、その穏やかで優しい声。
それを実感したとたんに、身体の中からゆっくり暖かさが広がってきて…そのぬくもりに胸が込み上げてくる。
『こんな時間に失礼かと思ったんだけれど…迷惑ならすぐに切るよ?』
「だ、大丈夫です…。」
客の話し声や、流れている有線の音楽。
店内に広がる喧噪の中で、あかねは声を顰めながら電話の声を探る。
目の前にいるわけでもなく、声だけしか聞こえないのに、さっきまでの心細さや孤独感なんて、今はもうどこにもない。

『スタジオにいたから、マナーモードにしていてね。メールに気付くのが遅くなったんだ。ごめんね。』
「いえ、私こそ…すいません…」
生活時間が違うせいで、いつも好きな時間に電話は掛けられない。
普段は圧倒的に、メールの行き来ばかりを繰り返していた。
そんな習慣が身に付いてしまったのだろうか。
……何故か、衝動的に指が動いていた。

彼しか思い付かなかったから。
これまでの自分を知っているのは、彼しかいない。
悩んで悩んで、自分で出した答え。
そんな自分の背中を支えてくれた…彼に、すがるようにメールを送ってしまった。

ただ、ひとこと。


------------"逢いたいです"----と。



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Megumi,Ka

suga