「橘さん、これから食事に行くのですが、ご一緒にどうですか?」
打ち合わせを終えた午後9時10分。
スタジオの戸締まりを終えてロビーに下りると、イノリのマネージャーが玄関前に車を回していた。
「食事か…どうしようかな」
さほど食欲があるわけじゃないが、何か胃の中に放り込んでおく必要はある。
だが、帰って自分で用意するのも面倒…というのが本音。
そこに、イノリが後ろから顔を出す。
「平日は家に帰ったって、寂しくおっさん一人だろ〜?食ってったら?」
彼の表情には、ニヤリと何かを含んだ笑みが浮かんでいる。
彼女が用意してくれたものは、まだ冷蔵庫には残っているんだけどね。
毎朝、パン一切れに少しだけスープを暖めて食するくらいだが、それが毎日続いていること自体が珍しい。
そんな支度も面倒くさいことには変わりないのに、それがあまり苦にならないのが不思議なほど。
おかしなものだな…。
ひっそりと日常を思い出しながら、友雅は何気なくポケットに手を入れた。
「おーい!おっさーん!すき焼きだってさ、すき焼きー!!」
先に車に乗り込んでいたイノリが、窓から顔を出して大声で友雅を呼ぶ。
しかし彼はと言えば、エントランスの前で携帯を手にしたまま、ずっとそこに立ち尽くしている。
「橘さん、急用でも入ったのかな」
運転席にいたマネージャーがそう言うと、彼が足早にこちらへ歩いて来る。
友雅が乗りこむために、イノリは反対側のドアを開けた。
が、彼は車の外で、運転席から顔を出したマネージャーに話す。
「申し訳ないけど、やっぱり私は家に帰るよ」
「何か、急なお仕事でも入りましたか?」
「いや…そういうわけじゃないんだけど。ちょっとすぐにでも、連絡を取らないといけない相手がいてね…」
友雅の手は、ポケットの中にある携帯を握りしめている。
それを見たイノリの中に、ピンとひらめくものが浮かんだ。
「悪いね。それじゃ、私は急ぐから。」
余計な会話もなく、彼はすぐに背を向けて立ち去って行く。行先はおそらく、裏手にある駐車場か。
「さーて。じゃあ早く飯食いに行こうぜー!」
首を傾げているマネージャーを急かし、イノリは車を出発させる。
多分、友雅が急に予定を変更すると言い出す理由は、たったひとつ。
……いくら相手がおっさんでも、こういうコトを邪魔するのは野暮だもんなー。
走り出した車の後ろで、そんなことを考えながらイノリは口元を綻ばせた。
+++++
午後9時を過ぎると、駅前もすっかり明かりが減ってくる。
そのせいか、あちこちに派手な看板が目立ち始め、違った意味で賑やかな夜の風景が広がってゆく。
もう何件目になるか分からない、リーズナブルなファーストフード店。
近くに学習塾があるので、こんな時間でも学生の姿が目に入るから、他の店よりは少しだけ気が楽だ。
けれども、店を点々としながらフードをつまみ続けたせいで、全く空腹感もない。
だからと言って、ドリンクもさすがに飲み飽きた。
ろくに進まない紙コップのコーヒーを無視し、暇つぶしに参考書を取り出しては、ぱらぱらとめくる。
"塾に通う学生"に見えるように。
店の奥では塾帰りの学生が二人、方程式についてディスカッションしている。
以前は自分も、あんな風に勉強を重ねて、大学生になることだけを目指していた。
その先には、空洞しかないことに気付かないまま。
……でも今はもう違う。
求めていた未来が、しっかりと自分の目に映っている。
…諦めたくないよ。
これまで歩いてきた道とは違う方向だけれど、諦めたりなんかしない…誰が何て言ったって。
どれだけ時間が掛かろうと、本気で立ち向かいたい、失いたくない。
でも、それを分かってもらうには、どうすれば良いんだろう…。
所詮自分は、まだ未成年の子どもで。
保護者である両親の了解が、あらゆる面に必要な未完成の人間。
……そう思うと、歯がゆくて、心苦しくて、どうして良いか分からなくなる。
「…あ…っ」
トレイの隅に置いていた携帯が、カタカタと震え始めた。
点滅している着信ランプは、ルピーのような赤い色。
掛けてきた相手が分かるように、いくつかの色を分けて設定している。
この赤が点滅する時は…………その相手は…。
「……もしもし」
おそるおそる通話ボタンを押して、耳に携帯を当てる。
『良かった。時間が経っていたから、もう繋がらないかと思っていたよ。』
耳から流れ込んでくる、その穏やかで優しい声。
それを実感したとたんに、身体の中からゆっくり暖かさが広がってきて…そのぬくもりに胸が込み上げてくる。
『こんな時間に失礼かと思ったんだけれど…迷惑ならすぐに切るよ?』
「だ、大丈夫です…。」
客の話し声や、流れている有線の音楽。
店内に広がる喧噪の中で、あかねは声を顰めながら電話の声を探る。
目の前にいるわけでもなく、声だけしか聞こえないのに、さっきまでの心細さや孤独感なんて、今はもうどこにもない。
『スタジオにいたから、マナーモードにしていてね。メールに気付くのが遅くなったんだ。ごめんね。』
「いえ、私こそ…すいません…」
生活時間が違うせいで、いつも好きな時間に電話は掛けられない。
普段は圧倒的に、メールの行き来ばかりを繰り返していた。
そんな習慣が身に付いてしまったのだろうか。
……何故か、衝動的に指が動いていた。
彼しか思い付かなかったから。
これまでの自分を知っているのは、彼しかいない。
悩んで悩んで、自分で出した答え。
そんな自分の背中を支えてくれた…彼に、すがるようにメールを送ってしまった。
ただ、ひとこと。
------------"逢いたいです"----と。
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