抱えたカケラ

 第1話
「以前、何度かお会い致しましたわね。随分と前のことですから…覚えていらっしゃらないかしら。」
「いえ…はっきりと覚えております。」
日本とアメリカという距離を挟んでいても、その記憶は鮮明に蘇って来る。
それに、彼女のことは一度思い出してしまえば、誰だって簡単に忘れることなどできないだろう。

最後に会ったのは、二年ほど前だろうか。
楽器業界のパーティーにやって来た彼女は、頼久を見つけてすぐに近寄ってきた。
華々しい人々が大勢集まるパーティーの中で、ひときわ輝く彼女の姿は、皆が思わず振り返っては目を奪われた。
無駄のない完璧なボディラインを、強調するような赤いドレスに身を包んで。
腰にまで届く金色の髪は、首にかけられた金のネックレスよりも眩しい。
ドレスに唇の色、指先、そしてハイヒール。
まさに"艶やか"という言葉がぴったりな、有無を言わせぬ華。
赤という情熱的な印象の色が、自分を一番引き立たせることを、彼女はよく理解しているように見えた。


「私が今日、お電話を差し上げた理由は…何となくご理解していらっしゃいますかしら?」
シリンの声で、頼久は我に返った。
「………橘さんのお話ですか」
「そこまで分かっていただけているなら、話が早いですわね。」
彼女が自分に話しかけてくるのは、いつもそれが理由だ。
最後に会った時も、挨拶もそこそこに彼女が尋ねてきたのは、友雅のこと。
彼から連絡は来ていないか。
彼がどこにいるか知らないか。
それほど付き合いの無い頼久でさえ、会えば必ずと言って良いほど、しつこく友雅のことを問い質される。
当の本人である友雅が、彼女たちから逃げたくなるのも、何となく分かる。

「私は、橘さんとは一切連絡は取っておりません」
「……本当に?」
疑っているのだろうか。
友雅とこちらが、密かに提携でもしていると思って、ここまで電話を?
「連絡が取れるのであれば、こちらこそお話したいくらいです。経営状況のこともありますし。」
頼久はきっぱりと、シリンにそう答えた。

「お噂に聞くところでは、随分お仕事は順調と伺っておりますわ」
「小規模ですから、無難なことが出来ないだけです。」
相手は世界を股に掛けた、今や一大企業の楽器メーカー。
こちらは未だに手作業のみで受注を承る、職人気質の老舗みたいなもの。
大量生産が出来ない分、ひとつひとつと丁寧に扱うことだけが取り柄。
故に、規模を大きくは出来ないのだ。
「そちらの方こそ、業績は目を見張るものがおありでしょう。こちらに来てからも『Orangea』を好んでいるユーザーは、かなりいらっしゃるようです。」
元は同じ業種なのだから、行く先々で多くのギターを目にする。
その中で『Orangea』のブランド名は、『Fender』や『Rickenbacker』『Gibson』等の、錚々たるギターメーカーと共存している。
「プロモデルやアマチュアモデル、多種多様なモデルをユーザーに合わせた価格で提供出来るのは、購買層を広げるものですね。さすがです。」
「お誉め頂くのは嬉しいのですが、生憎私は会社の業務進行には関わっておりませんので。」
さらりとクールに答えを返す。
電話の向こうで、赤いルージュの唇が動くのが見えるようだ。

「ですが、あの方は私共の会社よりも、源さんの会社の方がお好きでしょう。」
受話器を片手に新聞を折り畳み、シアトルの景色に目をやった頼久に、シリンはそう話した。
「やはりお父様よりも、お祖父様の方が心をお許しになっているのかしら。」
「…さあ。私も橘さんとは全く話をしておりませんから、その辺りはよく分かりかねます。」
手に取ったコーヒーは、既にぬるくなっている。
彼女から返答がないうちに、頼久はそれを飲み干した。


「…源さん、私とお会いして頂けません?」
それは突然の、申し出だった。
「どうしてまた。先程お話したように、私に何を聞かれても、橘さんのところには繋がる道はありませんよ?」
「それとは別に…あなたとお話したいことがございますの。」
いや、無関係とは言えないか、とシリンは言い直す。
「我が社と貴社について、社長である源さんに、ご相談したいのです」
相談って、どういうことだ…。
友雅とはつながりがない、とあれほど断言しているのに。それでも、まだ信用していないという裏返しか?

「シアトルにいらっしゃるのでしょう?何日までそちらに御滞在?」
「3日後には、帰国の途に着く予定ですが」
彼女の声が一旦途切れると、代わりにパラパラ…という、手帳らしきものをめくる音がする。
「私、ロスのショールームのリニューアルイベントに出るため、渡米する予定なのです。出発を早めますので、帰国される前に御会い出来ないかしら。」
そこまでして、自分と面会したいと?

頼久は、どう返事していいのやら…言葉に詰まった。
出来れば、あまり彼女とは面と向かって話をしたくはない。
友雅との約束を破るつもりはないが、時間を掛けて話しているうちに、つい口が滑ってヒントを与えかねないからだ。
そんな危険があるなら、最初から会わない方が良いに決まってるのだが。
「お願いします。我が社の存続に関わることなのです。」
シリンの声は、真剣だった。

「私共のようなものに比べたら、業績も知名度も桁外れの貴社には、相応しくない御言葉だと思いますが。」
「業績がどうあれど、このままでは近いうちに、どうにもならなくなるのは、間違い有りません。」
頼久の顔が、急に険しくなった。
…何かがおかしい。そんな気がする。
堂々とした彼女からは考えられないほど、その声はせっぱ詰まったような声で。
『Orangea』に、何かが起きているのか?
会社の経営を抑え込むような、重要な問題が。
「どうか…少しのお時間で結構です。こちらの話を、聞いて頂けるだけで構いませんから。」
日本を代表する楽器メーカーが、頼りなげに佇む姿が彼女の声で思い浮かぶ。

「分かりました。帰国の便の時間もありますので、あまり時間は割けませんが。」
「構いません。お話したいことは、ひとつしかございませんから。お時間は取らせませんので。」
頼久は覚悟を決めて、彼女と面会することを決めた。
搭乗時間に遅れないように、空港にほど近いホテルのラウンジで会うことを約束し、彼女との電話は終わった。



電話を終えて空を見上げると、青い画面に白いジェット機の跡が描かれている。
まさか、こうして彼女…あの会社と向き合う時が来ようとは。

それにしても、彼にこの事を話しておいた方が良いだろうか…。
用件は分からないが、彼女の様子は妙な雰囲気であったし。
会社の存続に関わること。
それに友雅の存在が、ひとつの原因であったとしたら?

頼久はしばらく悩み考えたが、取り敢えず彼に打ち明けるのは、後のばしにすることにした。
彼女の面会の意図は、まだはっきり分かってはいない。
どことなく神妙な感じはするが、まずは会って話を聞いてからにしよう。
おそらく、それでも遅くはないだろう。

電話が再び鳴り出した。
だが、それは携帯ではなくホテルの部屋電話だった。
「源様、FM局からお電話が入っております。」
日本人オペレーターの声のあとで、若い男性の声に切り替わる。彼は今日のスケジュールに同行してもらう、FM局のプロデューサーである。

とにかく…自分の仕事を終えてからだ。
なんとなく彼女との面会の方が、難しい問題になりそうな気がするけれども。



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Megumi,Ka

suga