「じゃあね、行きますよー。手を開いたら、お願いしますね?」
「OK。いつでも良いよ。」
二人でソファに腰掛けて、友雅はギターを抱え、あかねは携帯を手に持つ。
スピーカーを彼の方へ向け、息を飲んで手のひらをパッと開き、"さあどうぞ"と合図を送った。
響く音は、空気に溶けてゆく。
身体中を包むように、静かに静かに流れ、メロディーを紡ぎ出す。
弦と、それを弾く指先。使われるのはたったそれだけなのに、誰でも出来そうで…誰にも出来ない。
例え出来たとしても、それは別人の音。
心の中に染みこんでくる音は、彼からしか生まれない。
たくさんの人に受け容れられる曲でも、こんな風に感じることはなかっただろう。
まるで、運命の恋人に出会ったような気持ち。
彼の音を聞くたびに、いつもそんなロマンティックなことを思う。
「………子守歌になってしまったかい?」
はっとして目を開けると、友雅が覗き込んでいる。
彼の音がすでに終わっていた…のにも気付かなかったみたいだ。
「あ、ちょっとぼんやりしてただけです。ちゃんと起きてましたよっ」
慌てて録音ボタンを切る。
前後して少し会話が入ってしまったけれど、あとでそれは編集してしまえば良いだろう。
「ちゃんと録れたかなあ…」
「気になるんだったら、再生してみたらどうだい?失敗していたら、もう一回弾いてあげるよ。」
それもそうだ。今確認しておけば、すぐに録り直しも出来るし。
友雅に言われる通りに、あかねは携帯の再生ボタンを押した。
ついさっきまで、夢心地に浸っていた音が再び流れ出してくる。
録音されたものでは、やっぱり音質もあまり良くないし、イマイチな気がする。
だけど、それでも彼の音であることは確か。
他の着メロなんか使うより、ずっとずっと耳に優しい。
「もう少し高い音にした方が、携帯から聞くには聞きやすい音になったかな」
隣で自分の音を聞いていた友雅は、そんな専門的なツッコミをするけれど、あかねにはそんな違いまでは分からない。
せいぜい分かることと言ったら、生の音と機械を通した音の違いくらい。
でも……
「ううん、全然平気です。」
この小さな携帯の中に、彼の音が詰め込まれている。
いつでも聞こうと思えば聞ける。この再生ボタンさえ押せば。
そう思うと、見慣れた携帯が宝箱のように思えてくるのが不思議だ。
「まあ、気になるところがあったら言っておくれ。一曲でも二曲でも、同じようなものだしね。」
友雅はそう言って、抱えていたギターをソファの上に置くと、空になったあかねのグラスを手にしたまま、台所へと向かっていった。
冷凍庫に冷やしておいたせいで、オレンジジュースは短時間ながらも、丁度良い冷え頃となっていた。
彼女が焼いたクッキーを皿に並べ、太陽のような色のグラスと共に部屋に戻る。
あかねは、まだその手から携帯を離さなかった。
「友雅さんて…あまり人前でギターとか、弾かないんですか?」
「ん?そんなことはないよ。一応これでも、ギタリストという肩書きだから。」
そういわれてみれば、そうなのだけれど。
でも、森村がスタジオで言っていた。
"橘さんのギターが聞けるなんて、滅多に無いからラッキーだ"とか。
「まあ…今回みたいなプロデュースの仕事の場合は、指示するのが殆どだからね。たまに見本として、さわりだけ弾いて聞かせてみたりはするけれど。」
ソファの外にギターを移動させ、友雅は足を組み替える。
庭に面した窓から、ほんの少し秋を思わせる風が吹き込んで来る。
「別に、人に聞かせるのが嫌いなわけでもないよ。そんな性格だったら、ギター抱えて路地裏で弾いていたりしないよ。」
「あ…そうか…」
出会いの夜。薄暗い路地裏での、偶然ともいえる遭遇。
ストリートミュージシャンのように、自分から人目を集められる場所を選ばずに、こっそりと通りの影に隠れるように。
それでも外で弦をつまびけば、誰かしら通りすがりに立ち止まる人はいるだろう。
「だからって、わざわざ人に聞いてもらおうという気もないけど。」
………?
人に聞いてもらうのは嫌いじゃないから、出掛けて行くわけで。
なのに、わざわざ聞いてもらおうって気はない…って、意味が噛み合なくない?
首をかしげているあかねの髪を、掻き上げるように友雅の手が伸びる。
「単なる気まぐれ。私がやっていることは、そんなもんだよ。」
そう言って、彼は笑った。
何もかも、その場しのぎの思いつきか気まぐれ。
仕事の選び方も、直感次第。他人との付き合いも-----異性に対しても-----そんなものだった。
後ろ髪を引かれない、上澄みの中を泳ぐような生活が、自分は気に入っていたし、今もそれは嫌いではない。
ただひとつだけを除いては。
「昨日のスタジオでのことも、私の気まぐれ。せっかく私の演奏を気に入ってくれる子がいるんだから、じゃあ弾いて聞かせてあげようかな、ってね。そういう気まぐれだよ。」
友雅の手が頭を引き寄せて、額と前髪の境目ギリギリに唇が当たる。
そのままもたれるように、彼の胸に身体が傾いて行く。
手の中にある携帯に、彼の音。抱き寄せてくれるのは、本物の彼。
互いの距離が、こんなにも近付いていることに気付くたびに、どきどきする。
「でも、いくらでもこうやって弾いてあげられるんだから、別にあそこで弾く必要も無かったんだよね、思い返してみると。」
「そんなことないですよっ。私、いつだって…」
いつだって、聞いていたい。
彼の音を、ずっといつでも、どこでも、どんなときも。
音質なんか気にならないから、こんな小さな携帯からの音でも良いから、触れていたいと。
-----ふと、互いを見つめ合っていることに気付いて、息が止まりそうになった。
「あ、だってほら…森村のおじさんとかスタッフの人とかも、友雅さんが弾くのは珍しいって言ってたしっ!」
慌てて寄り掛かった姿勢を正し、携帯をバッグの中に放り込む。
そして、理由もないのにハンカチやらポーチやら、ごそごそかき回して。
「みんな、きっと嬉しかったと思うんですよっ!その、友雅さんの音…聞けて…」
あかねの言葉に耳を傾けながら、彼女の背中を眺める。
後ろを向いているにもかからわず、少し頬を染めてどぎまぎしている表情が、目に見えるようだ。
「それほど私の音が希少価値なのか、分からないけれども。でも、それが本当だとしたら…君は、みんなに感謝されなきゃいけないね。」
「え、どうしてですか?」
バッグをばたんと閉じて、くるりとあかねは振り向いた。
「だって、君がいなけりゃ、私は気まぐれを起こさなかったんだしね。」
ぷに、と伸ばした人差し指で、あかねの頬を突いて。
「機会があったら、彼らに言ってごらん。『私がいたから、橘さんは弾いてくれたのよ。』とかね」
「そ、そんなことっ……」
あかねの頬を何度か突いたあと、友雅は笑いながらソファから立ち上がり、縁側の方へと歩いて行った。
はためくカーテンの裾。まだまだ眩しい夏色の緑。
無駄な雑音の聞こえない場所で、彼女の声が自分を追いかけるように聞こえて。
「天気も良いし、少し出掛けてみようか。」
「出掛ける…って、これからですか?」
「そう。歩いて行ける範囲に限られるけれど。」
どこまでものどかな風景。
自然しかない、殺風景にも見える景色ばかりだけれど、たまにはそんな空気を吸うのも良いんじゃないだろうか。
「行ってみる?味気ないデートは嫌いかな?」
「ううん、そんなことないです!行きます!」
振り向けば、既に彼女は立ち上がってカーディガンを羽織って。
しかも帽子までかぶり、用意は万全だ。
「あ、そうだ!冷蔵庫から飲み物持って来ますね!喉が渇いて脱水症状になったら困っちゃうし!」
そう言ってぱたぱたと足早に台所に向かう、彼女の無邪気な声が心地良かった。
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