Special Impression

 第4話
「あの…友雅さん、急にどうしたんですか?」
暖かなカフェオレのボウルを手に、二口・三口それを飲んで喉越しを暖めてから、目の前に座っている友雅に尋ねた。
「何か用事あったんですか?あのメール…」
"抜け出せないか"なんていきなり言うから、少し戸惑ったけれど。

「いや、別に用事ってわけじゃないんだけどね。ただ、せっかく偶然とは言え顔を合わせられたんだから、そのまま他人の振りで別れるのもなあ…と思って。」
白磁に金色のラインの入った、上品なエスプレッソカップに指を絡める。
「せめてお茶くらいは…と思って呼び止めてしまったんだけど、迷惑だったかな」
「い、いいえっ!全然そんなこと…」
迷惑だったら、即座に森村に下ろしてくれ、だなんて言わなかった。
迷わず、あの時あかねは友雅の誘いを肯定した。
それは間違いなく、自分も会いたかったからで……。
「帰りは家の近くまで送って行くから、少しの間付き合ってもらえるかい?」
「はい……」
丁度フロアスタッフが、ラストオーダーの注文を取りに、座席を点々と聞いて回っていた。
そろそろみんな、お茶の時間よりもアルコールを楽しむ時間。
オープンカフェも店じまいのタイミングだ。
ショーケースには殆どケーキも残っていなかったが、その中からクリームプディングだけをひとつ、友雅はあかねの分として追加オーダーした。


「でも、まさか君がこの業界に就職しようなんて、そんなことを思っているとは知らなかったよ。」
プディングをスプーンですくうと、友雅はそう切り出した。
「受験で悩んでいたんじゃなかったのかい?」
「うん、それはそうだった…んですけど」
「今になって、方向転換?成績が随分良くなった、って聞いたばかりだったのに。それとも、元々音楽関係の大学に行くつもりだったの?」
あかねは黙って、首を横に振った。
「いろいろあって…。でもっ、ホントに真剣に考えてるんです。中途半端な気持ちじゃないんです!」
「大学はどうするの?」
「……大学進学は辞めて、音楽関係の専門学校へ行こうと考えてて…。それで、おじさんに相談したら、"現場を見て、それから考えても遅くない”って言われて連れて来てもらったんです。」
そういう理由で、突然彼女が現れたのか。

「で、現場を見てどうだった?気持ちは変わった?」
「変わりませんでした。むしろ…頑張らなくちゃ、って思いました。まだまだよく分かってないから…」
当然だろう。まだ業界人ともなっていない彼女が、いくらあらゆる手段を使って知識を得ようと、その中で生きる人々の価値観は常に変化して行く。
専門用語だって気付けば簡単に短縮され、または暗号のように全く違った言葉に比喩されることも少なくない。
友雅自身、この業界に生きるようになって十数年…。足を踏み入れるきっかけの時期を入れれば、もう二十年か。
それでも進化して行くシステムや手法に、追いつくのに苦労することもある。
ただ最近は、自分は自分の音で良いのだと思うようになって、適当に気を抜きながら生きる術を覚えたせいで、楽になったけれど。

顔を上げ、ふと目の前にいる彼女を見る。
甘いホイップクリームと、鮮やかなフルーツをほおばる姿が、一枚の絵のように馴染んでいる。
……彼女が、この世界で生きるのか。
そんな映像を思い描くと、どこか友雅には気が重かった。
彼女の夢を遮るつもりではないけれど…出来れば、彼女には外の世界で生きていて欲しいような、そんな気がした。




閉店時間になり、二人は外に出た。
午後9時。人の行き来は衰えないけれど、そろそろ彼女を送って行かなければならないだろう。
車はカフェから、少し遠い場所に停めていた。飲食店やジムのあるビルの上にある駐車場だ。
屋上に近いそこは意外とがら空きで、おそらく皆地上に近いところを探して、ここまで気付かないにちがいない。良い穴場だ、と彼は思った。

「明日は、どこに迎えに行けば良いかな。駅前にするかい?」
がらんとした駐車スペースに足を踏み入れ、歩きながらあかねに話しかける。
それほど大きな声でもないのに、やけに響く足音が気になって、自然と話す声が小さくなった。
「駅前で良いです。あ、でも荷物があるから…南口の方が良いかなあ。」
北口と違って、南口付近は道路が広い。それに、バスターミナルがないだけ、車もスムーズに身動きが取れる。
「昨日から、色々仕込んだんですよ。ピクルスとかお肉とかお魚とか…あとデザートなんかも!。」
「へえ。それじゃ、しばらくは食事に困らないね。楽しみだ。」
二つの足音に笑い声が重なる。
階下に見える夜の街は、まだまだ賑やかな雰囲気なのに…ここは静まり返って人の気配がない。

奥に停められている、彼のアウディへと向かう。キーレスエントリーで、ライトが点滅してドアが解錠された。
助手席のドアを開けて、先にあかねを乗せようと背中を押した友雅は、ふとさっき思ったことを口にした。
「本当なら、君にはこの業界は勧めたくないんだよ」
「…どうしてですか?」
シートに腰を下ろそうとしたあかねは、その言葉にもう一度立ち上がった。
彼女は真っ直ぐこちらを見る。
友雅が言った意味を、問い詰めようとして目の前に立つ。

「前にも言ったよね。この業界は…綺麗事が通じる世界じゃない。金や権力でねじ伏せれば、ヒット曲だっていくらでも作れる。頑張ってみても、それを上の権力者たちが押しつぶせばおしまいだ。そういう事が、日常茶飯事なところだよ。」
それでも稀に、権力者の力さえもはね除けるような、特別な才能を持った者が現れる時もある。
だが、それは十年に一人…数十年に一人か二人、そんな数少ない選ばれた人だ。
大概は興業を期待し、権力者のあとを着いて行き、つまらない音楽として流されていく運命になる。
「上に潰されないように、あちこちの顔色を伺いながらやらないとね…努力も全て無駄になる。でもね、そのコツを会得するには経験と時間が必要だ。それまでに、屈辱的なことや挫折を少なからず味わうことになる。」
そうやって夢破れ、諦める者たちを彼は何人も見て来た。その世界の真ん中で。
「君には、そういう汚い世界で生きて欲しくないんだ、出来ればね。」
だから、こんな業界とは縁遠い別世界で、普通に生きてくれたらと思う。
普通に大学進学でも良いし、そのままどこかの会社で普通にOLをしても良い。
自分が目の当たりにした汚れた世界で、彼女は生きて欲しくなかった。

「でも、そういうのって…どんな仕事だって同じじゃないですか。」
あかねは顔を上げて、友雅を見た。
「何でもかんでも、上手く行くばかりのことなんてないです。悔しいことも挫折したい時も、きっとどんな業界にもあります。」
仕事の現場だけじゃない。日常の生活だって、そんなことの繰り返しだった。
受験というしがらみに縛られ、身動きが取れずに諦めかけてた。
でも、時に一筋の光が差し込む場所を見つけられることもある。
「どうせ経験するなら、私は一番自分がやりたい業界で、自分が本気になれることで、その壁に挑戦したい。」
…以前から何度か思ったことはあったが、改めてこうして彼女の瞳を見る。
何て綺麗な、透明感のある色をしているんだろう、と思った。
その瞳の奥には、きらきらと光が輝いていて。
無垢な宝石のように、そう…彼女の瞳にはひとかけらのインクルージョンさえ見つけられない。
時折、目が離せなくなる。

「それに、もしかしたら運良く友雅さんみたいな、すごいミュージシャンを発掘出来るかもしれないでしょ?」
急に彼女の表情が和らいで、友雅は我に返った。
今の今まで真剣だった顔つきは、いつものように少女らしい無邪気な笑顔に戻っている。
「その人の音が出来るだけ多くの人の耳に届くように、地道でも良いから頑張るんです。そうしたらいつか--------」
ふと、照れくさそうにあかねは顔を逸らして、笑う。
「私が友雅さんの音を聞いた時に感じたみたいな…素敵な音楽との出会いを経験する人が、生まれるかもしれないじゃないですか。」

テレビから流れてくる音。ラジオから流れてくる音。
有線から、街角から、インターネットから…。音が流れる場所はいくらでもある。そこで耳にした音に、誰かが反応するかもしれない。そして、気に入ってくれるかもしれない。
あかねがCDショップで、イノリたちの音を聞いたときのように。
そして、街角で彼に出会ったときのように。
まるでそれは…運命の出会いのようで、ロマンティックに思えて来る。
そんな"音"とのめぐり逢いを、サポート出来たら素敵じゃないだろうか。
自分が経験しているからこそ、あかねはそんな夢を描きたくなる。

「私みたいな気持ちを、たくさんの人が体験出来たらいいなあ…って。」
そう言って笑った---次の瞬間だった。

目の前が真っ暗になって、身体を強く締め付ける力に気付いた。
暖かくて広い胸がそこにあり、腕の中にあかねは閉じ込められている。
当然その腕の主は、一人しかいない。

「……友雅…さん?」
押し当てられた胸にむかって、あかねは少しドキドキしながら彼の名を呼んだが、返事も何も返ってこなかった。
ただ、優しく、そして強くその腕に抱きしめられて、吹き込んでくるはずの夜の風から遮られている。

身動きが取れないまま、あかねは友雅の腕の中でじっとしていたが、しばらくして彼の指先が動いたことに気付き、そちらへ視線を傾けようとした。
しかし、指先に向けるはずの目は、頬に触れた彼の手によって阻止され、大きくて長いその両手が、彼女の頬をそっと包んだ。

もう一度顔を上げて友雅を見ようとした。
だが、それもまたあかねには叶わなかった。
名前さえも呼べないうちに、その唇は彼の唇によって塞がれてしまって。

いつものような、軽く甘いだけのキスじゃない。
だけどそれは激しさではなく、だけど…優しい感触のまま、抱きしめる腕と同じように離れない。

自然と、あかねは瞼を伏せる。
何故だか、そうしたい気持ちが込み上げてきて。

このまま……こうしていても良い、と思った。
何分でも、何時間でも、何日でも……離れないままいられたら良い…と、そう思いながら、友雅の唇を受け止めた。



-----THE END-----



***********

Megumi,Ka

suga