夜明け前には

 第2話
心音は落ち着くことを知らない。何かタイミングを外したら、大きく震動するような気がする。
揺れ動き始まったらそのリズムは乱れたまま正調に戻らなくなって、自分がどうなるか分からない。
それくらい、あかねの周りに漂う空気の緊張感は半端じゃなかった。

「暖かいうちに飲みなさい。冷めてしまっては何にもならないよ」
友雅に差し出されたカップに手を伸ばす。ほんのり漂う甘い香り。暖かいミルクの湯気が顔をくすぐった。

幾度か口に含んで喉を暖める。
その間、友雅はずっと抱えているギターをつまびいていた。

「お兄さんって………」
「『友雅』で良いよ。せっかく名前を名乗ったのだから、言葉にしなくては意味がない。」
友雅に遮られた言葉を飲み込んで、もう一度言い直す。

「あの…友雅さん…て、お仕事って何してるんですか…?」
「何故?」
「だって…………」
首を動かさずに視線でぐるりと部屋全体を眺める。
普通の中流家庭と同じ仕事では、こんな部屋で一人暮らしなんて夢のまた夢だ。
「何をやっていると思う?当ててごらん」
悪戯っぽい目線をあかねに向けて、友雅は微笑みながら尋ねた。

彼独特の、乱れのない落ち着いた空気。それでいて、どこか他に類のない艶やかさ。
そして、誰も近付くことの出来ない音楽的な才能は…普通ではない。
多分、音楽関係…。でも、これだけの才能があったら、名前だって顔だって少しくらい見かけても良いくらいなのに。

「音楽…のお仕事?」
あかねは少し、戸惑いげに答えを言ってみた。
「……間違ってはいないね。詳しいことは言えないけれど」
友雅はそう言って、いとも簡単にあかねの問いかけをさらりと交わした。
こうやって人波の中もするりと通り抜けているんだろうか。誰に存在をアピールするでもなく、その場に流れている空気と同化して、彼のウェーブのかかった髪のようにゆるやかな足取りで。

「ところで」
友雅の奏でる音に耳を傾けてしばらくぼんやり時間を過ごしていた頃、急にギターをつまびく指の動きを止めて彼があかねに言った。
「自宅に電話しておいた方が良いんじゃないかな?ご家族が心配するよ、こんな時間まで連絡もなくては。」
サイドボードの上に置いてあるシンプルな時計の針を見る。
思わず目を大きく見開いた。

………午後11時20分。

「や、やだ…どうしようっ!こんな時間までウロウロしてたら怒られちゃう!」
慌ててあかねはバッグの中に手を突っ込み、ビーズで出来たストラップの付いた携帯電話を取りだした。
点滅している液晶画面……着信履歴のボタンを押すと、自宅から三回のコールがあった。留守番電話をセットしたままだったので、呼び出し音に全く気付かなかった……。
とにかく電話しなくては。
…………自宅の電話番号を途中まで押したとき、ふとあかねは思った。

一体どうやって説明したらいいだろう?

こんな時間まで連絡もしなかった理由を問われたら?
今、どこにいるのかと尋ねられたら?
……誰と一緒にいるのか、と聞かれたら?……………何て答えれば良いんだろう。

「どうかしたのかい?」
携帯電話を握りしめたまま、一向に動きが進まないあかねを見て友雅が不思議そうに言う。
「……両親に、何て説明したらいいのか思いつかなくって……」
「私が代わりに話してあげようか?」
「そ、そんなことしたら、ますます家に帰れないですよーっ!」
「どっちみち、帰れないだろう?こんな時間では」
でも、何て言えば……ホントにどう言えば一番問題なくやり過ごせるんだろう。

………口実。そういえば何度かクラスメートの女の子から、相談持ちかけられたりしたことがあったけれど。
でも、まさか自分にそんな状況がやってくるとは思ってなかった。
しかし、そうあれこれ考えている暇はない。時間は容赦なく過ぎて行く。
信頼できる誰かに、口裏を合わせてもらうしかない。

■■■

天真の携帯が鳴ったのは、もうすぐ日付が変わろうとしている時間だった。
液晶画面にあかねの名前が浮かんでいる。ゲームのコントローラーを手放して天真は携帯を握った。
「もしもし……天真くん……?寝てた?」
やけに小さく声を潜めたあかねの声が耳に響いてきた。
「あー。いや、ゲームやってた。何だよ、こんな時間に電話なんてしてきて」
こんな夜遅く電話してくると言うことは、何か特別な用事があるとしか思えない。なのに電話の向こうのあかねの口振りは、いつもと違って妙にしどろもどろではっきりしない。

「何だよー?はっきり言えよ、今、ダンジョン50階目なんだからさー」
テレビに映るゲーム画面を眺めながら、天真はごろりとベッドの上に寝転がる。
「あ、あのね………」
「何だよ」
「お、お願いがあるんだけど……」
「あ?何だよ、言ってみ」
「…………あのー……………」

またあかねの声がとぎれた。かなり言いにくい事らしい。
しかし、いつまでもこの調子では問題も解決しない。
「はっきり言えよー。もうすぐボス戦近いんだからさぁ」
天真が頭をかきながら、面倒くさそうに言うと、やっとのことであかねが声を出した。

「今夜…天真くんのところに泊まってるってことにしてくれない…かなぁ……☆」

一抹の不安。それは携帯電話の向こうから聞こえる沈黙の時間。
その間、天真の頭の中にどんなことが浮かんでいるのかを思うと、あかねも心が落ち着かない。

「おまえ……いつ、そんな男つかまえたんだよっ!?」

耳を劈くような大声で天真の声が響いてきた。あまりに大きかったので、多分…近くにいた友雅にも聞こえてしまっただろう。焦っているあかねを後目に、彼はくすくすと笑っている。

「そ、そういう訳じゃないってば!ちょ、ちょっと…色々とあって……」
「色々って…おまえ、一体いつからそんな関係してたんだよ?」
「だから、違うってばっ!とにかく、うちのお父さんかお母さんから連絡があったら、蘭と話に花が咲いちゃったから泊まるって、そう言っておいて!」

もう、何を言っても埒があかなそうだったので、半ば強引にあかねは天真に言葉を投げつけて電話を切った。多分…彼のことだから、何のかんのいきつつ取り繕ってくれるはずだろう。

それからわずか1分後、今度は天真から電話がかかってきた。

「……おい、あとで事情は詳しく聞かせてもらうからな」

そう言って天真は電話を切った。

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Megumi,Ka

suga