夜明け前には

 第1話
「だからっ……ホントに大丈夫ですってばっ!!」

そろそろ人の足も途絶えがちになってきた時間。
駅から少し離れたマンションのエントランスホールに、ソファに腰を下ろしたあかねの声が響いていた。
「この雨の中を、どうやって帰るつもりなのかな?」
ギターケースを抱えた友雅が、隣から顔を覗かせる。
「……あ、じゃあ、傘、貸してくれませんっ?」
「そりゃあ構わないけれど…。ねえ、よく考えてごらん。外の雨は次第に強くなってる。しかも終電まであと5分。それでもしも間に合わなかったら、どうするんだい?」

確かにそれはそうだけれど、だからと言ってまさかそんな…見ず知らず、というか、少なくとも知人とまでは行かない他人の部屋に、それも…一人暮らしの男性の部屋に入り込むなんて、いくらなんでもそう簡単に足が進むはずがない。
友雅の言った通り、ロビーの窓からは雨に打ち付けられている植木の姿が見える。
今思い出せば今朝の天気予報は降水確率70%だと言っていたはずなのに、何でまた傘を忘れてきてしまったんだろう。
髪の毛に染み込んだ雨の滴が、頬に伝って冷たい。
肌寒い季節でもないのに、少し身体が震える。
そんなあかねの髪に、そっと友雅の指先が伸びた。心臓と同じくらいの震動が全身に響く。

「いつまでもそんな格好のままでは風邪を引いてしまうよ。意地張っていないで一緒に着いておいで」
「で、でもっ!でもっ…!!」
こんなシチュエーション、心の準備が出来てない。
戸惑って前に踏み出せない。
「問答無用だよ。凍えそうになってる子猫を、見捨てるほど私は非常な男じゃないからね。そういう時は腕ずくでも手を差し伸べてあげないと………」
「きゃ〜〜〜っ!!」

甲高い叫び声がロビーに反響する。
軽々とあかねを抱き上げた友雅は、指で彼女の唇を止めた。
「静かに。悪いようにはしないから」
そんなこと言ってもどうにもならない。
身体の血管も心音も何もかも、全てコントロール機能が崩壊寸前なほど乱れてしまっているというのに。

■■■

10階建てのマンション。最上階のペントハウス。
淡いクリーム色の内装は、夜でもどことなく暖かい雰囲気がする。
ここはこの辺りでは飛び抜けて目立つ高層マンションで、外から見ただけでも一般中流家庭以上の人々だけが、住むことを許されているようなたたずまいだった。
その割には部屋のレイアウトは殺風景で、コレといって目立つものは何も見あたらない。玄関を入った手前にあるダイニングキッチンにも、食器などはろくに置いていない。
リビングはただでさえ広いのに家具もたいして置いていないので、よけいにだだっ広く感じる。壁にもカレンダーがひとつ貼ってあるだけ。
ソファ、テレビ、ステレオ、テーブル。20畳近いフロアにこれだけの家具。
全くというくらい生活感がない。

「適当にその辺りに座って構わないよ。」
友雅はそう言って、一人奥の部屋へと姿を消した。

殺風景な部屋に取り残されたあかねは、取り敢えずソファに腰を下ろした。ゆったりと沈むクッションは雲のような柔らかさだった。
それにしても…これだけ豪勢な所に住んでいながらも、そういうゴージャスな雰囲気が一切ないのが逆に不思議な感じがする空間だ。
女性と違って男性は特別料理などもしないだろうし、洋服とかも必要以上にこだわらないだろうから、基本的に持ち物は少ないかもしれないけれど…だからと言ってここまで何もないのは寂しくないんだろうか。

ぼんやりともの思いにふけっていると、頭の上にふわりと何かが落ちてきた。
真っ白な柔らかいバスタオル。ほのかに香る石鹸の匂い。
「さ、バスルームを貸してあげるから暖まっておいで。そのままじゃ本当に風邪を引いてしまうからね。」
ばさばさ、と今度は肌触りの良い布地が、あかねの膝の上に落ちてくる。
「乾燥機があるから、着ている服は乾かしておいた方が良い。それまでは私の服で我慢してもらうしかないけれど」
フランネルの優しい感触の布で覆われたパジャマを指さして、友雅はあかねにそう言った。

そうは言われても……やはりなんというか。
その……色々と複雑な感情が入り混じる。
戸惑って次の行動になかなか進めないあかねの背中を、友雅が軽く手前に押した。
「ぼんやりしてないで、早く行っておいで」
「は、はぁ………」
半ば無理矢理にバスルームに押し込まれてしまい、仕方が無くあかねは内側からドアの鍵を閉めた。

洗濯機と乾燥機、ベージュ色の洗面台も相変わらず殺風景。
友雅のものであると思われる歯ブラシと歯磨きチューブと、ボディソープしか置いていない。

「あたし、何でこんなところにいるんだろー………」

まだ湯気にあたってもいないのに、洗面台の鏡に映るあかねの顔は少し赤かった。

■■■

ゆっくりバスタブに浸かるなんて余裕はまるでなく、さっとシャワーを浴びるくらいしか出来なかったあかねだが、それでも結構全身はほのかに暖まった気がする。
洋服を乾燥機に放り込んで、バスルームと廊下をつないでいるドアの鍵を開けた。

----♪------♪♪------♪

うっすらと静かに聞こえる音。
ギターのメロディーがリビングのドアの向こうから聞こえてくる。

……お兄さんの音だ。

あかねはその場で立ち止まって耳を傾けた。
小刻みに精神世界に響いてくるビブラフォン。澄み切って濁りのない艶のある弦のきしみの音。
ガラスドアの向こうに友雅の背中が見える。しっかりと、ギターを抱えて指先でつまびいている。
聞いたことのない曲だったが、どことなく懐かしく感じるのは何故なのか。
不思議と心音との波長が合うから、そう思うだけなんだろうか。

だけど、どうして……そんなに容赦なく心の奥深いところまで、彼の音は入り込んでくるのか。
それを無防備すぎるほどに、素直に受け止めてしまう自分にも驚くけれど。

………でも、やっぱりお兄さんのギターの音……好きだな……。

「そんなところに立っていないで、こっちに来たらどうだい?」

はっと我に返ると、リビングのソファに腰を掛けてこちらを見ている友雅の顔を見つけた。湯気で湿った髪の毛も、もうほとんど乾いていた。
あかねは慌てて足早に彼の所へと急いだ。



リビングのドアをぱたんと閉めると、背後で友雅が小さな声を立てて笑っているのが分かった。くるり、と即座に振り向いてみる。
「何ですかっ?」
少し強気な言い方をして、彼をちょっと睨んでみたりする。
「いや……やっぱり私の服は大きすぎたねえ、と思って…ね」
友雅は笑いながら答えた。------確かに上着の裾は腰をすっぽり包んでいるし、そでは爪の先まで隠れてしまっている。ズボンの裾は三つくらい折り返してやっとつま先にまとわりつかなくなった。

「でも、なかなかそういう格好も可愛いね。似合うよ。」

どことなく、というか、絶対にからかわれているのは間違いないのだけれど、素直に照れるのも余計に照れくさい気がして、あかねは少しすねたように唇をとがらせてみた。
***********

Megumi,Ka

suga