小さな頃から

 第2話
用意されている書類は、結構厚いものだった。
何枚かパラパラとめくってみると、一枚一枚にぎっしりと細かい文字が書き込まれている。
「是非、お持ち帰りいただいて目を通して頂きたく思います。デビューは来年の元旦を予定しておりますので、まだ時間は御座います。取り敢えずデビューアルバムということで、12曲のうちの4曲を橘さんにお願い致したいと思っておりまして」
ガラスで覆われたカフェテラスの一番奥にある席に、友雅は中年男性と向かい合って座っていた。

目の前にあるグラスには、クラッシュアイスとアイスコーヒー。そしてタバコの煙がうっすらと漂う。
「イメージとしては書類に明記してある通りで御座います。また、グループメンバーのプロフィールについても、一応資料として添えてありますので」
友雅は片手でグラスを持ち上げ、一口冷たいコーヒーを口に運んだ。
「で?デモテープはいつごろまでに仕上げればいいのかな?」
「今年の10月のあたまくらいには上げて頂けると有り難いのですが」
「10月ね…分かった、頑張ってみるよ。でも期待はしないでおくれよ。」
そう言って友雅は笑いながら書類を受け取ったが、業界人である立場上期待せざるを得ない。

相手は屈指の天才ミュージシャン。仕事を選ぶために、そう簡単に表舞台には出てこない『橘友雅』。
つい最近もライバル会社がスポンサーをつとめる映画のサウンドトラック担当をお願いしたというが、あっさりと断られてしまったと聞く。垂涎の高額な契約金を用意していたというのに、見向きもされなかったという。
とにかく偏屈で気分屋の彼を落とすには苦労する。
それでも目を離せないのは、それだけ彼の作る音に惹かれる者達がいるからだ。

■■■

友雅は書類を家に持ち帰ってきた。
茶封筒ごとテーブルの上に放り投げて、ソファの上に寝転がった。
「新人グループのお披露目アルバムの曲作りね…相手のこともよく知らないっていうのに、この私が良い音楽なんて作れるはずがないだろうに…」
独り言をつぶやいて、友雅は目を閉じた。

音楽を生み出す人間にとっては、環境には敏感だ。特に友雅の場合はかなりのうるさい注文がある。
クリエーターという名前の肩書きを持つ者として、自分の音にはそれなりのポリシーが欲しい。中途半端なものは作りたくないし、それでは自分で自分が許せなくなる。

気むずかしいと自分でも思ったりするが、だからこそ一部の者たちに受け入れて貰えるのではないか、という客観的に見る目も友雅はある。
だからこそ、たまにこういう大きな仕事が飛び込んでくるために生活を続けられるのだ。
その場限りで、いつのまにか忘れ去られてしまう薄っぺらい音楽などは作りたくないけれど、おそらくそんな音を創って行けば、生活はもっと過ごしやすくなる。
それでも、諦めきれないのは自分へのプライドだ。
あれこれ考えていても仕方がない。友雅は体を起こして、部屋の隅に置いてあるギターに手を伸ばした。

■■■

その夜、あかねは天真に自宅へと誘われて夕食をご馳走になることになった。
明日から出張ということで、普段は帰宅の遅い天真の父も既に家に戻っていて、珍しく家族全員揃った食卓となった。

「んじゃ、俺は風呂入ってくらぁ。それまで蘭、相手してやれよ。風呂出たら、送ってってやるから」
天真はそういって、客であるあかねをほったらかしてバスルームへと歩いていってしまった。
とはいえ、そんな家族みたいな気さくな付き合いが出来るというのが、かえってあかねとしては居心地が良い。
彼の妹の蘭は一つ下だが、結構会話の内容の通じるので仲も良い。
「そういえば蘭、音大目指してるんだって聞いたよ?やっぱりピアニスト目指すの?」
長い黒髪を三つ編みにした蘭に、あかねはこの前天真から聞いたことを尋ねてみた。
「うーん、まあ…なれるといいんだけどー…。でもピアノ好きだから、出来ればそっち方面の道には進みたいから、音大の方に行きたいと思ってはいるんだ」

もしもピアニストにはなれないとしても、蘭はずっと音楽に携わる仕事をして生きていくのだろう。
何度か聞いたことがあるけれど、天真以上に彼女のピアノの音は美しかったことを覚えている。力強さはないけれど、自然に流れ出す音がとても耳に優しいと思った。
とは言っても、そんなに自分は音楽には詳しいわけじゃない。分析するなんて恐れ多いのだけれど、素人であるあかねの耳にそう聞こえてくるのだから、多く人たちだってそう思うに違いない。
「ねえ、蘭、ピアノ弾いてみてよ。久しぶりに聞いてみたいなぁ。」
「え?今?」
「うん、今日ね、天真くんのピアノも聞いたんだけど、蘭のピアノを聞くのって久しぶりだから。手ならしで良いから一曲聞かせて?」
あかねが頼み込んでいると、丁度後ろの椅子に座っていた天真の父が口を挟んだ。
「蘭、弾いて聞かせてあげなさい。弾けば弾くほど演奏者は腕が上達して行くし、楽器も弾けば弾くほど、いい音を奏でてくれるようになる。そして演奏者と楽器が同一の位置を保てるようになったとき、初めて素晴らしい音楽が生まれるんだよ」
天真の父は穏やかな口調で、そう説明してくれた。
「じゃあ、あまり上手くなっていないと思うけど…」
と少し躊躇して、蘭はリビングにあるアップライトピアノに向かった。

久しぶりに聞いたが、思っていた以上に蘭のピアノの腕は上達していたように思う。
ずっと力強さが足りないと思っていたのだが、いつのまにか堂々とした演奏も様になってきている。
もしかしたらピアニストも夢じゃないかもしれない。それほどに彼女の音は更に美しくなった。
あかね自身は何一つ楽器が扱えないので、こんな風に音を生み出すことの出来る人がとても羨ましいといつも思っていた。
ぼんやりと黙って蘭のピアノに聞き惚れていたあかねだったが、背後で数枚の紙ずれの音がして振り返った。

「明日からのお仕事の書類ですか?」
あかねの声に、天真の父は手を止めて顔をこちらに向けた。
「ああ…なかなか気むずかしいミュージシャンの人からね、やっと契約OKの返事をもらったんだよ。とても素晴らしい才能を持っている人なんだけれどね、どうにも首を縦に振ってくれないことが多い。業界では知らない人はいないくらいの力があるんだけれど、表舞台に引っぱり出すのは至難の業なんだ」
「そうなんですか…その人がやっと契約してくれたんで、もしかしてそのためにロンドンに?」
「せっかく彼がOKをくれたのだから、それなりのシステムは整えておかないとね。今度はいつ、彼の音楽を聴くことが出来るか分からないから、今回に全てを捧げているって感じだよ」
そこまで気むずかしい相手と向かいあっていたのでは、さぞかし大変なことがあったのだろうが、彼は穏やかに笑いながらいきさつを説明した。多分、今回の契約がよほど嬉しかったに違いない。

「あかねちゃんにもお土産買ってくるから、帰国したらまたおいで」
「えっ!そんな図々しいことは……」
と、言った手前だが、内心はちょっとだけ期待している。それが今日日の女子高生というものだ。

「おう、あかね、そろそろ遅いから送ってってやるぜ」
まだ髪の毛に水滴を残したままの天真が、ピアノの音が流れ続けるリビングへと入ってきた。
手の中にはバイクの鍵、時計を見ると午後9時も少し過ぎている。他人の家を訪ねるにはタイムリミットだ。
あかねは天真達の家族全員にお礼を言った後、エンジンをかけた天真のバイクの後ろに腰を下ろした。
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Megumi,Ka

suga