小さな頃から

 第1話
けたたましい電話の音が、朝早くから部屋中に響きわたっている。

2LDKの部屋の中には、4台の電話が取り付けられている。
リビング、バスルーム、寝室、書斎(とは言っても普通の洋間で、書斎の機能は全くない)、この電話が一斉に鳴り出すのであるから、軽やかな電子音も結構うるさい。
ベッドの中から手を伸ばして、床に置きっぱなしになっている受話器を面倒くさそうに取り上げる。

「………誰…?」
声を出すのもかったるい。
「Moondrop Musicの森村と申しますが」
電話からは、端正なトーンの落ち着いた男の声が聞こえてきた。が、そんな名前には覚えがない。
「何か…私に用事ですか」
布団にもぐっていた頭を起き上がらせると、ブラインドから強い光がストライプ状に射し込んできている。

ふと枕元の時計を見た。午前11時15分。朝早く…と思ったが、そうも言えない時間になっていたらしい。
「本日の11時から、駅前ビルにあるスタジオにて打ち合わせというお約束をしておりましたのですが?」
乱れた髪の毛をかきあげて、次に友雅はカレンダーを見る。
サインペンで○が記されている。もしかして、これが今日予定していたスケジュールだったんだろうか。

「ああ…悪かったね。ちょっと夕べ遅かったものだから…。また日を改めてくれるかな?もう遅いだろう?」
「いえ、申し訳有りませんが私も多忙なもので、明日から一週間ほどロンドンの方へ出張しなくてはならないものですから。よろしければ午後の1時ぐらいでももう一度おいで下さらないでしょうか?」
現在の時間は、もうすぐ11時半。友雅のマンションから駅ビルまでは、散歩がてら歩いて20分程度。そう遠くはない距離だ。

「分かりました。じゃあ、その時間にもう一度。今度は必ずお伺いしますよ」
渋々アポイントを受け取った友雅は、受話器を置いてバスルームへと向かった。
あまり気の進まない仕事ではあるけれど、生活費のためであるから仕方がない。

■■■

土曜日の放課後は、明るいうちから校内が静かになる。
とは言っても部活動で残っている生徒も多くいるので、深閑としているわけでもない。グラウンドではタイムを競っている陸上部員がいるし、体育館からもボールの跳ねる音がする。
そして音楽室もそうだ。ピアノの音が聞こえてくる。

屋上に続く踊り場は誰もやってこないので、あかねはぼんやりと階段に腰を下ろしてピアノの音に耳を傾けていた。
コーラス部のピアノの伴奏をやっているのは、とても予想出来ないだろうか、あの天真である。
どう考えても、あの天真にピアノの才能があるとは思えないのだが、実際彼の母親はピアノの教師であり、そして地父親は有名なレコード会社の営業取締役という音楽一家なのだ。
彼の妹も音楽家を目指し、母にピアノを習いながら音大進学を志望している。
まあ、だからと言って天真が同じように音楽の道に進むはずがないわけで、彼自身はピアノや楽器よりもサッカーボールやバスケットボールの方が性に合っていたようだ。

が、血は争えないと言うか、彼の母の幼児教育が功を奏したらしく、天真の中にあったピアノの才能のつぼみは、表だってはいないが開花している。
面倒くさいし自分に関係のないことだというのに、こうしたコンクールの前には伴奏者としてお呼びがかかるのだ。

「信じられないよねえ、あの天真くんがこんなにピアノ上手いなんて…」
暖かい日差しを背中に受けながら、目を閉じてメロディを聞いてみる。
曲目は分からないけれど、よくコンクールなどでは課題曲として歌われるものだ。
行動派の天真の指先から流れ出してくる音階の数々は、空気の中に自然に溶け込んで辺り一面に広がる。
幼い頃からの付き合いで、これまでに何度も天真のピアノは聞いてきた。思いも寄らない優しい音は、心を暖かく包んでくれるような気がして好きだった。

「音楽家でも目指せばいいのにね…」
あかねは、ふと独り言をつぶやいた。


『音楽家』。
そういえば…先週に出逢った彼は一体、何者だったんだろう?

艶やかな風貌と、妙な存在感。そして彼の奏でたメロディ。あれは……夢だったんだろうか?
そう思わずにはいられないほどに、不思議な余韻を残した夜だった。
多分彼は、一般の普通の人とは違う。そんな確信がある。普通の人とは何かが違う。
何が違うのかというと説明が出来ないのだが…彼の存在があかねにとっては他の人とは別に何かを感じさせていた。彼の生み出した音が、あかねの心とシンクロしてひとつになる。普通はそんな経験なんて出来やしない。ましてや…初対面の相手に。

「あのお兄さん…またあそこにいるのかな…」
もう一度逢ってみたい、あかねは思った。
逢って、あの音を聞きたい。もっと…彼と話してみたい。

■■■

「ったく〜!指が痛くなっちまったぜ!」
指先をマッサージしながら、天真が音楽室から出てきた。
「天真くんお疲れ様。ずっとそこで聞いてたよ」
「何だ、聞いてたって面白くもなんともねぇだろ?」
「そんなことないよ。天真くんのピアノ良かったもの。コーラスが霞んじゃうくらい」
「けっ!お世辞なんか言っても、もうソフトクリームなんておごらねえよ」
そう言って天真は笑ったが、誉められているのだからまんざらというわけでもない。特別ピアノや音楽に執着があるわけではないが。
あかねは踊り場から立ち上がって、天真と共に教室へと戻った。


教室には数人の生徒が、まだ残っている。本を読んでいる者や、他愛もないおしゃべりを続けている女子生徒も何人かいる。
あかねたちはさっさと帰りの支度を整えて、一階の正面玄関へと降りていった。
「あ、そういやオヤジが明日から出張なんだ。一週間くらい。」
靴を履き替えていると、天真が思い出したように言った。
「忙しいんだねー。どこに出張?」
「確か、ロンドンとか行ってたぜ。久々の海外出張だとさ」
「ロンドン!?すっごい!さすが業界人だなぁ…うちのお父さんなんて、出張って行っても東京くらいだよ」
羨望の眼差しと口調であかねが言った。
「まぁ、いろいろと忙しいみたいだぜ?土産の相談だったら、今夜のうちにするんだな」
「そんな失礼なこと、出来っこないでしょ!」
そう言って天真の背中を、拳で軽く小突いた。笑う声が帰ってくる。
こんな風に馴染んだ時間が何よりも心地良い。


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Megumi,Ka

suga