静かな日々の階段を

 第2話
受験生だから、という理由だけで、こんな風に時間を楽しむこともしばらくなかった。
去年まではこんな感じで、三人で笑い合っていたはずだったのに、詩紋と逢うのも学校でしかなかったし、天真ともそうだった。

「久しぶりだね、あかねちゃんたちと一緒に遊びに出掛けるの」
詩紋は嬉しそうに笑って、二人の顔を見た。
「あかねちゃん、今夜は勉強のこととかあんまり考えないで、楽しくやろうよね?」
「そうだね…」
きらきらした髪の毛と瞳で、あかねの顔を覗き込んで詩紋は微笑んだ。

年下の詩紋にまで、もしかしたら心配をかけていたのかもしれない。
自分の力が伸びないことで自己嫌悪にばかり陥って、周りが自分を心配してくれている想いを通り過ぎてしまっていたのだろう。
まだまだ自分は、人間が出来上がっていないな。あかねは自覚した。
そして今度は、そのことに対して自己嫌悪を感じ始めてしまった。
困ったものだ。これくらいのことでどんどん自分が嫌になって落ち込んでくる。
何かきっかけを作らないと、方向転換のチャンスを見つけないと、悪いものがもっと悪くなってしまいそうだ。
でも、どうすればいいだろう…。

「あかねちゃんも、行ってみたいと思わない?」
「え?」
詩紋の声に、はっと我に返った。
「な、何が?」
二人がこちらを見ている。
「あのね、隣町にライブハウスがあるでしょ?今週はそこで、うちの学校の生徒がやってるバンドのライブがあるんだって。これから行ってみようって言ってたんだよ」
詩紋の手には、コピーで刷ったイベントチラシが握られていた。見覚えのある紙。確か学校の掲示板あたりにも、同じものが張り出されていた記憶があった。

「俺は別に興味ねぇけどよ。でも行きたいってんだったら、別にいいぜ。飲んだり食ったりも出来るんだろ?そこ」
「多分。でもお酒は出してもらえないよ。高校生のバンドだから、ノンアルコールDayだって書いてあるもん」
「なんだよそれ。しけてんなぁ」
「あたりまえじゃないですかー!ね、あかねちゃんも行こう?」
「うん。面白そう。行ってみようか」
あかねはにっこりと笑って言った。
少しだけ、無理して作った笑顔だったけれど。

■■■

ライブハウスの中に入ると、結構フロアは客が多く集まっていた。とは言っても学校で見たことのある顔が多い。あかねたちと同じように、同級生の物見高い好奇心で足を運んだ者が殆どだろう。
三人はステージからかなり離れた、入り口の近くにテリトリーを決めた。が、オールスタンディングのようなので、決まった座席があるわけでもなく、時間が経つに連れて居場所もズレて行くだろう。
薄暗いステージにはマイクと楽器。彼らがどんな音楽を奏でるのか、あかねは全く知らない。
学園祭などではステージを盛り上げているらしいが、いつもあかねは役員会などで走り回っていたので、実際にそれらを見たこともなかったからだ。

「あ、そろそろ始まるみたいだよ」
ぼんやりとした明かりのフロアが、一斉に闇へと変化した。
金属音の物音と、うっすらと見える人影。誰かの話し声。

とたんに次の瞬間、閃光のようなライトが全体を発光させた。数人の青年が楽器をそれぞれ携えてステージに現れる。
歓声が無数に聞こえてくる。どこかで聞いたことのあるような音が、小さな狭苦しいライブハウスに響きわたった。

こういう音は、決して嫌いではない。だけど、音楽はその時の気分で嗜好が変化してしまう、かなり敏感な芸術作品だ。
今のあかねの精神状態は、このような音を求めてはいなかった。
もっと違う音が良い。
例えば………どんな音だろう?考えたが答えはない。

でも、この音ではない。他にあるはずなのだが、分からない。
あかねは、目の前にいる天真の肩に手を掛けた。

「天真くん、ごめん…ちょっとこの熱気に酔ったみたいだから、少し外に出てきて良い?」
「あ〜?おまえ大丈夫か?具合悪いんだったら、送ってくぜ?」
「あ、違うの違うの!ちょっと外の空気吸いたいだけだから。また戻ってくるから。ね?」
「……物騒なところには行くなよ?」
「大丈夫だって。じゃ、ちょっと出るね」
寄せ合っている人の間をかき分けて、あかねは入り口の方へ向かった。
もしかしたら、静寂の方が自分には今必要なのかもしれない。闇は闇でも、夜の闇が必要なのかもしれない。
地下から地上へ上がると、ひんやりした夜風が吹いていた。

■■■

出てきたのは良いけれど、どこに行こうか考えていなかった。人通りは多い。まだ時計の針は8時を回ったばかりだ。
この辺りは繁華街ではあるが、飲み屋が少ないので酔っぱらいも殆どいない。若者が多いが、ガラの悪い輩の集まるような店もないので、歩いていても比較的安全だった。そのせいか、通行人も女性が多い。

あかねは宛もなく、散歩のつもりで歩き出した。
途中、ファーストフードショップでポテトとコーラを買って、手にしながらとぼとぼ歩いた。
ライブハウスが近いからか、楽器屋がいくつか並んでいた。貸しスタジオの看板も掛かっている。その店の裏にある路地からは、素朴な楽器の音と馴染んだ歌声がする。最近流行のストリートミュージシャンたちだ。

この路上からスターダムに上がって行く者も最近は多い。そんな夢を求めて、彼らの歌う声は夜の中に紛れて行く。
フォークソング、ロック、ポップス…それぞれに歌う曲調は違う。オリジナルだったり、人気のある歌のコピーだったりと、演奏内容も様々だった。
でも、彼らの共通している唯一のことは、夢や情熱や未来への想いがあることだった。その声や音から伝わってくる。
ふと、耳に入る音を聞きながら思った。

どうして大学に入りたいんだろう?
そんな単純な疑問が、あかねの頭に浮かんだ。
大学に入って、どうなるんだろう。何かやりたいことがあるのだろうか?
あたりまえのように日常的に、受験勉強をして大学を目指してきた。
だけど、どうして大学を目指すのか?基本的な答えが、見つからなかった。


「こんな時間に、こんな路地裏を一人でお散歩かい?」

薄暗い路地の突き当たりを通り過ぎようとしたとき、思いがけなく声を掛けられた。
目を向けた先は、楽器屋の裏口に続く階段。一人の長身の男が腰を下ろしてこちらを見ていた。
ゆるやかな長い髪を束ね、ギター一本だけを抱えている。ストリートミュージシャン…にしては、貫禄が普通とは違う気がする。

「この辺りはあまり物騒な雰囲気はないけれど、若い女の子が夜に歩き回るのはいただけないね」
片手で頬杖を着いて、彼はあかねを笑みを浮かべて見つめている。
ジーパンにTシャツで、カジュアルなジャケットシャツを羽織って、ラフな雰囲気の出で立ちだが、身のこなしはやはり普通ではない。
「あのー…お兄さん、ストリートミュージシャンなんですか?」
「私の正体に興味があるのかな?」
「あ、いや、何て言うかー、ちょっと普通の人と違う感じがしたから☆」
妙に色気のある目でこちらを見るものだから、気恥ずかしくなってあかねは笑ってごまかした。
「まぁ、君とは通りすがりの出会いだからね。そう思って貰っても構わないよ。実際、楽器を使って生活はしているから、完全に間違いではないからね」
彼は、抱えていたギターの弦を、軽くつまびいてみた。
高くて、張りのある音。

「あ!」

あかねは、思わず声を上げた。
「どうかしたのかい?」
「え、あの……」
何て言えば良いだろう?どう説明したら、正しい答え方になるだろう?

-----------今の音。あの音が聞こえた瞬間、体の中にある神経が共鳴した…ような気がした。

「何でもない…です」
そんな事を言っても、信じて貰えないだろう。実際、あかね自身もよく分からないのだから。
だけど、気になる。今のギターの音が。
もっと…聞きたいと思った。じっくりとその音を耳にしたいと思った。

「あのー…お兄さんて、こんなところにギター抱えて座ってるっていうことは、歌ったりギター弾いたりするんでしょ?」
「ああ、たまにはね」
「じゃあ…あの…リクエストとかしたら、歌ってくれるの?」
「歌はやらないんだ。演奏だけだよ」
「じゃ、リクエストしたら、弾いてくれるの?」
「リクエストは、受け付けていないんだよ」
彼は常に笑顔を絶やさずに、あかねの質問に答えてくれた。
「それじゃ、何を演奏するの?」
もしかして演奏拒否だろうか。リクエストでもすれば、ギターを奏でてくれるかと思ったが、そう簡単には無理なのかもしれない。

しかし彼からの答えは、結構意外なものだった。

「その人のイメージを演奏するのさ」
「イ、イメージ?イメージを演奏する…って、どういうこと!?」
その場から離れられなくなったあかねは、彼のすぐ下の階段に腰を下ろすことにした。
「私がその人の事を見つめて、イメージしたものをメロディーにするのだよ。もちろん即興だけれどね。でも、イメージって言うのはその時折で違うものだからね。そのたびにその人だけの、オリジナルの音が出来上がるっていうことさ。その辺にいるストリートミュージシャンよりも、面白い発想だろう?」
「はあ……」

もしかして、彼はかなり変わり者かもしれない。あかねは、そう思った。
女性の目で見た限り、彼のルックスは間違いなく人並み以上のレベルだし、人当たりも決して悪くないのに、なかなか偏屈というかなんというか…価値観やらとらえ方やらが普通とは違うらしい。だけどそれがかえって新鮮な気もする。
「じゃあ、私のイメージも音に出来るんですか?」
一応尋ねてみた。
「勿論。どんな人にだって、その人の空気があるからね。私の楽器は、その空気を察知することが出来るんだよ。君の空気だって、音に変えることが出来るさ」
「それじゃ、聞かせて。あたしの音ってどんな音なのか気になる!」
あかねは身を乗り出して、彼の手にあるギターに目を向けた。

長い指先が、弦に触れる。
静かに目を閉じて、呼吸を整えて、彼の指が動き始める。


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Megumi,Ka

suga