静かな日々の階段を

 第1話
指先で弦をつまびくと、音を奏でる。
その音は身体の神経の隅々を行き渡り、深い胸の奥に沈み込む。
深く深く、暗いところにある地底の場所に眠る、それは自分の記憶かどうかも分からない。
ただ、その音を聞くたびに思い出してしまうのは。
名前も知らない、この自分の意識の中に存在する少女。
彼女の正体を見抜けないまま、時間はゆっくりと流れて行く。
彼女の姿は昔ほど鮮明に見えなくなったけれど、でもどこかで思っている。
あの少女に会う瞬間が、やってくるのだろうか、と。

■■■

雑踏が押し寄せてくる。午後2時過ぎ。天気が良い。
しかしこんな町中では、雨だろうが晴れだろうが季節は感じられない。
人混みの会話、クラクションの音、急ぎすぎの時間。
たまにはゆっくりと、雑音のない世界でうたた寝でもしてみたいものだ。
そう、友雅は思いながらビルを出た。

今しがた、スタジオを飛び出してきたばかりだ。とは言っても、別に足早に逃げてきたとか、そんなことではない。
お偉い方の要求には飲めないと判断し、その場にいる意味がなくなったから、自主的に部屋を出てきただけだった。

「橘 友雅」。彼は、ミュージシャンだった。
ジャンルは特別問わないが、彼の操る楽器から流れ出す音階やメロディーは、歴史上の楽聖たちに匹敵するという噂は、業界では知らない者などいない程だった。
そんな彼を楽団に迎えよう、売りだそうとしている新人アイドルの楽曲の演奏をして欲しい、ソロでアルバムを出してみないか……彼を表舞台に誘い出そうという輩は後を絶たない。
もしもそれらの誘いに乗っていたとしたら、おそらく彼は一大財産を築くほどのヒットメーカーになったに違いない。
しかし、そう簡単に彼は首を縦に振ることはなかった。

音楽に関して、多分自分は異常なまでにピュアなのだ。友雅はそう自覚していた。
どうしても、そのプロジェクトの後ろにある金銭的な面での大成功が見えてしまうと、音楽への欲求が失せてしまう。全くやる気がなくなる。
ビジネス=音楽という方程式は、友雅のノートには記されていない。自分の奏でたい音を奏で、聞いて貰いたい人に向けて演奏する。楽しくやれれば、それでいいのだ。それが、友雅流というわけだ。

そんな趣向のせいで、あまり豪奢な生活はしていない。
それなりにレベルの高いマンションだが、部屋には必要不可欠なものしか揃っていない。そして世話をしてくれる女性が数人、日々ごとに交代で出入りする。
勿論彼女たちはハウスキーパーではない。友雅にとっては、楽しい時間を共に過ごしてくれるパートナーである。
そんな彼の態度を、不謹慎だと囁くものも少なくはない。しかしそんなことを気にしたところで、彼らの意識を変えることなど出来やしない。
ならば無視して自分のライフスタイルで人生を楽しまなければ損だ。
今日の友雅があるのは、そんな彼のポリシーが強く押し出されているからだろう。

さて、青空には白い雲が流れているのが見える。
仕事のスケジュールも白紙に戻ってしまったし、このまま家に帰るしかないのだが、天気が良いのに部屋に閉じこもるのももったいない。
都会の中で感じる自然の光は、贅沢な一瞬だ。もう少しだけ、外の空気に触れていても良いだろう。
ビルとビルの間にある公園は、よく友雅が出かける場所だった。
ニューヨークのセントラルパークのような、広大な自然が味わえる敷地はないけれど、緑色の芝生と小さな木々の集まった林、大きすぎない池には鯉の舞い、うるさくない程度の子供の声。一人で過ごすには丁度良い空間だった。

今夜は、どうしようか。ごろりと芝生の上に寝転がる。木々の葉の間から太陽が光を差し込む。
楽器を奏でるのは好きだけれど、あれこれとセールスに関わるのは面倒くさい。

久しぶりに、出かけてみようか。
そう、ギター一つだけ手にして。

■■■

憂鬱だった。思ったように成績は上がらなかった。
希望している大学への合格率は、あと一歩のところで合格ラインに届かない。
毎日十分に頑張っているはずなのに、最後の一歩が足りない。
どうして努力が形に結びつかないんだろう?
受験までは、そう長い時間が残っているわけじゃないのに、進歩が見られない自分自身を見ると気が重くなった。

「なんだ、元気ねぇじゃん!」
背中を叩かれて振り返ると、天真が微笑んでいる。いつものように明るい表情をしてる彼が、少しだけ羨ましかった。
「いいよねえ、天真くんは進学希望じゃないから」
「なんだ?ああ、模試の結果が出たのか?どうなんだよ、合格ライン届いたのか?」
「余裕があればこんなに気が重くないよ〜」
あかねはため息と共につぶやいた。
「はぁ?別にダメならダメで、他の方向考えりゃいいだろ。案外おまえが目指してる方向よりも、そっちの方が良いことあるかもしんないぜ?」
呑気な答えに聞こえるかもしれないが、これが天真なりの励まし方なのだろう。
「どーにもなんなかったら、俺が口添えしてやってもいいぜ?」
「そんな、最初から縁起でもないこと言わないでよ〜!!」

笑い声が会話と混ざり合う。
春風が吹き抜けて行く五月。若葉が鮮やかに彩り始める。
こんなに暖かな心地よい日なのに、あかねの気分は低迷気味だ。
自分の思い通りに行かないという現実は、当然だと認識はしているつもりだけれど、それでもこれまでの自分の集中力を思えば、少しくらい反応があっても良いと思う。
しかしそれが現実で、揺るぎない答えが出てしまっているのであるから仕方がない。

だからなおさら、気分が落ち込む。
深呼吸すると、緑の香りがする。青々とした香り。
「気分転換でもすれば?おまえ、根を詰めすぎなんじゃねーの?どっか遊びにでも行くか?」
そんなあかねを見て、天真が心配そうに言う。
「うん…ありがと」
「じゃ、今夜ちょっくら出掛けるか。あ、折角だから詩紋も呼んでやろうぜ。あいつもおまえのこと、気にしてたみたいだからな」
久しぶりに三人で出掛ける夜遊び。とは言っても、午前様したりはしない。もちろん飲酒禁止の健全な夜遊びだ。

確かに、ここで一旦気分をリセットする必要があるのかもしれない。
ため込んだ重い空気を外に出してしまわないと、新しい風も入ってこない。



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Megumi,Ka

suga