4時近くになった頃、娘たちが部屋を訪れた。
「あらま、良い感じじゃない。おしとやかに見えるわよ」
「それ、いつもはおしとやかじゃないって、言ってるようなものじゃないのっ」
新しい浴衣に着替えたあかねを見て、母は一応誉めたつもりらしいが、どことなく余計な意味合いを感じるのが娘としては引っ掛かるところ。
「いや、でも涼し気で良いじゃないか。上品な柄だな」
母子のやり取りに、フォローを兼ねた父の言葉が加わる。
自分で選んだいくつかの反物の中から、彼が最後に決めてくれた淡い色の柄。
黒地に白百合の夏羽織は、既製品だけどこれも友雅が選んでくれたもの。
「夏とはいえ、夜の野外ですからね。一応羽織りものがあった方が良いかと」
「んまぁー、ホントに橘さんて完璧ですわねえっ」
また母の声が踊っている。
そんな母の背中を、つんつんとあかねが肘で突いた。
「なによ」
「……橘さん、じゃないでしょ」
娘に突っ込まれて、はっとした母は友雅の顔を見た。
彼はといえば父と談笑していて、こちらの反応には気付いていないようだが。
「名前で呼ぶんでしょ」
そう、義理とはいえ息子なのだから、名前で呼んで何ら問題はないはず。
実の息子のように、あかねを呼ぶときと同じように、彼を名前で。
「お義母さん」
「はっ、はいっ!?」
いきなり友雅の方から名前を呼ばれて、声が裏返りそうになった。
「今宵は演奏会終了後に会合がありますので、残念ながら夕食の席には同席できないのですが」
「あ、あら気になさらないで!お仕事ですもの、大変ですものねっ!」
「申し訳ありません。遅い夕食になりますが、良い料理を頼んでありますので、あかねとお楽しみ下さい」
「お、お気遣いありがとうございます…と、と、と、友雅さ、さ、ん」
母の後ろで、あかねは思わず吹き出しそうになった。
いくら緊張しているからって、そこまでどもらなくても、と。
しかし友雅の方は、いつもと何ら変わらない様子で母に笑顔で応える。
「いいえ。お楽しみ頂ければ光栄です」
と言って、また彼は父の方に顔を向けた。
「お義父さんのお好きな銘柄も、用意して頂いているので是非お楽しみ下さい」
父の好きな"銘柄"とは、この辺りの地酒のことだ。
いくつか味わった中で特に気に入った銘柄があり、友雅はそれを手配してくれたのだろう。
「す、すまないね、と、友雅…くん」
「お付き合い出来ないのは残念ですが、いずれまた」
母が突破口になってくれたおかげか、父の方は割とスムーズに彼の名前を呼べたようだ(多分)。
それでも、若干緊張からどもっていた感もあるけれど。
「では、また会場に戻らねばなりませんので、この辺で失礼します」
「が、頑張ってくださいね!楽しみにしてますわっ!」
両親たちに挨拶をして、あかねも友雅を外まで見送るために部屋を出た。
「友雅さん、うちの両親どうでした?」
「ん?何かあったのかい?」
気付いているのか、わざと知らない顔をしているのか。
でも、勘の鋭い彼だから、人の変化に気付かないわけはない…。
わざわざ、聞き出さなくても良いか。
自然に変わっていけることが一番良いと思うし、意識することなく絆が強く結ばれて行くのは素敵だと思う。
当事者限定じゃなくて、二人に関わるすべての人たちが繋がって。
そうしてまた、新しい世界が生まれる。
+++++
ちょっと前まではあんなに緊張していたにも関わらず、会場に着いた時にはすっかり二人とも出来上がっていた。
「まあ良いお席だわー。ここならばっちり、友雅さんの姿が見えるわねっ!」
あかねと一緒の時でさえ、ずっと"橘さん"呼びだったというのに、あっさりと普通に名前呼びになっている。
一体あの緊張時間は何だったのか、と思うくらいに拍子抜けなのだが、まあ良いとしよう。
本殿から張り出した舞台を囲むように、ずらりと並べられた席がどんどん人で埋まって行く。
ゆっくりと闇が空を覆い始めて、夏の夜風が少し漂い始めた。
ふと、少し離れた場所からあかねの方に手を振る女性の姿が目に止まる。
「あ!ちょっと私、席外すね」
すぐさまあかねは席を立ち、彼女の方へと足早に駆けて行く。
「良かったー、会えたー」
長い黒髪をアップにまとめた浴衣の女性はというと、もちろん蘭だ。
出掛けるときにメールを返信していたので、近くまで会いにきてくれた。
「あかねちゃんの浴衣、良いね!羽織のカッコイイ。やっぱりそろそろ、私もピンクは卒業しようかなあ」
それでも結構大人っぽい柄を選んだんだ、と蘭が身につけていたのは、白地に紫とピンクの牡丹柄。
華やかだけど、これはこれで大人っぽい感じもあるのでなかなかだと思うが。
「そんなことよりー、早く紹介して」
蘭の腕に絡み付いて、あかねは彼女を急かす。
一緒に来ているはずの…蘭の彼氏。
まだ一度も会ったことも顔も見たこともない、話でしか聞いていない蘭の彼氏をようやく目にするチャンス!
妹思いの天真くんには悪いけど、これは女の子同士だから出来るコト。
「早く早く!」
「もー…自分の旦那様と比較しないでね!」
笑いながら、二人は手を繋いで人ごみの中に消えて行った。
数分後、やけに楽しそうな顔をして戻って来たあかねを、母が怪訝そうに見る。
「どこに行ってたのよー。もう少しで始まるのよ」
「ふふふー、蘭の彼氏、紹介してもらってきちゃった」
「あらっ!蘭ちゃんたら彼氏と一緒なの?やだわ、お母さんにも紹介してよ!」
何でよりによって、友達の彼氏を母に紹介しなきゃいけないか。
でも、意外と落ち着いた感じの人だったな。
そのせいか、少し年上に見えそうだけど、嫌みなところはなくて好青年って印象。家族に紹介しても、彼なら良いんじゃないかな〜…なんて。
蘭からもらった手土産の紙袋を足下に置いて、あかねはそんなことを考えた。
「そろそろねえ」
舞台に点された灯籠の明かりが、闇に映える時刻になってきた。
ほのかに和の香りが夜風に乗って、頬を撫でるように流れて行く。
ひとりずつ、舞台の奥から楽器を手に現れるシルエット。その中に彼の姿もあるはずだが、照明が薄くてまだ確認出来ない。
でも、闇に目が慣れて行くうちに、視線が右往左往しながら一人を探し出す。
「ほらっ、あそこにいるの友雅さんよね!」
自分が一番先に見つけたと思ったのに、母が同時に指差したのは間違いなく彼の姿だった。
素早い…というか、やっぱり自然と目が追ってしまうのかな。
決して明るいと言えない舞台で、大勢の演奏者の中にいても、どこか惹き付ける何かがあるから?
笛の音が、はじまりを告げる。
響く鼓の音に謡が重なり、そこに加わる琵琶の音。
「あ…」
友雅さんの音だ。
数人の演奏者がいるのに、やっぱり彼の音だけは不思議と分かる。
音が、こちらに注いでいる。自分の方へと。
自惚れじゃなく、確かにそう感じる。