晩夏の旋律

 003

友雅が教えてくれた抜け道の地図は、車載のカーナビよりも正確で確実だった。
途中に見えた中心地に近い国道のバイパスは、既に結構な大渋滞になっているのが遠目にも分かったほど。
こちらは一本外れた市道。
十分な車間距離を取って走行できるくらいに、楽な道のりだった。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
旅館の玄関前に車を停めると、入口に若女将とスタッフが数人出迎えに出ていた。
取り出した荷物を運ぶスタッフ、鍵を預かって車を駐車場へ入庫するスタッフ。
女将に案内されたフロントで手続きを済ませると、それぞれ部屋の鍵を渡された。
「ご両親様のお部屋は、露天付きの和洋室をご用意しております」
「あらっ!露天付きですってよあなた!」
宿の手配は友雅が済ませたので、温泉好きの父を考慮して部屋を選んだのだろう。
そして、あかねたちの部屋は-------

「橘様は演奏会の準備をされているそうですが、後ほどこちらにお戻りになられるそうです。それまで、どうぞごゆるりとお過ごしください」
女将が直々に案内してくれた部屋は、両親たちと同じ露天付きの和洋室。
しかしスイートルームだけあって、畳敷きの和室のに洋室リビングがあり、広いバルコニーにはガーデンセットも備えられて。
寝室のダブルベッドからは、大きな窓を通して青々とした緑が望める。

…懐かしいな。
ふと、あかねはそうつぶやきそうになった。
去年の秋、近くの神社で結婚式を挙げたあと、二人はこの宿に一泊した。
その日に泊まったのが、まさにこのスイートルーム。
当時は鮮やかな紅葉が眺められたけれど、今は清々しい夏の緑。
それでも、いろいろと思い浮かぶ。
二人で幸せをかみしめた時のことが、あれもこれもとよみがえってきて。
「お幸せそうで何よりでございます。挙式のお写真、社務所で見せて頂きました。とてもお綺麗でしたわ」
「あ、はは…どうもありがとうございます」
女将の言葉に照れ笑いしながら、あの日の想い出をあかねは何回も反芻した。



ゆっくりとお過ごしください、とは言われたけれども…ひとりだと時間も持て余しがち。
携帯をいじったり、ロビーに置いてあった観光ガイドを眺めたりしていたが、気付くとベッドの上でうたた寝していたようだ。
目が覚めて時計を見ると、午後3時を回っている。
演奏会は午後7時から始まる予定だが、5時半頃から開場になるらしい。
「友雅さん、まだ戻ってこないのかなー」
メールの着信ランプが点滅していて、蘭からの連絡が入っていた。
1時間ほど前にこちらに到着し、さっそく賑やかな祭りに出掛けているとのこと。
「ふふ、彼氏さんってどんな人かな〜」
神社の宮司に口利きしてもらい、彼女たちには小さな温泉宿を紹介してもらった。
参道から路地を入った奥にあるので、静かに過ごせる居心地の良い宿。
恋人とこっそり出掛ける旅行には、ぴったりなのではないだろうか。

起き上がってリビングに向かい、メールの返信をしようとした時のこと。
部屋の電話が鳴り出して、すぐに受話器を取り上げた。
『ご主人様がお戻りになられました。これから、お部屋に向かわれるそうです』
ようやく、友雅が戻って来た。
携帯を閉じて、開けっ放しのバッグを部屋の隅っこに避けてから、あかねは足早に入口へ向かった。
数分も経たないうちに、部屋のインターホンが到着を知らせる。
「おかえりなさい!お疲れさまでしたー」
「あかねこそ、ここまで暑くて大変だったろう」
「ううん。友雅さんが教えてくれた道、日陰が多かったからそれほどでもなかったです」
渋滞にも巻き込まれなかったし、早めに到着出来て良かった。
両親は部屋に入ったきりだが、多分ゆっくりくつろいでいると思う。
「そうか。あとで挨拶に伺うよ」
淡い蓬色の夏羽織を脱ぎ、友雅は窓辺のソファに腰を下ろした。

冷蔵庫の氷を数個茶碗に放り入れてから、持参した魔法瓶の麦茶を注ぐ。
京にも麦湯と呼ばれる飲み物があったので、彼はこれがとても飲みやすいらしい。
「準備はどうですか?」
「まあ順調にね。特に、これと言ったことはないのだけれど」
毎年行われている演奏会だし、特別風変わりな演出があるわけでもない。
回を重ねれば慣れも出て来るものだ。
いつもの調子で、準備も本番も予定通り進行していく。
「でも、もしかしたら来年からは、少し慌ただしくなるかもしれないね」
まだ決定ではないのだけれど、と友雅は断りを入れたあと話を続けた。
「来年から、企画に携わってくれないか、と言われてね」
「ええっ!?それ、すごいじゃないですか!」
つまり、この演奏会の中心スタッフということじゃないか。
祭りの一行事とはいえ、大勢の観客が集まる名物の演奏会だ。
それを任されるなんて、よほどの信頼がなければ無理だろう。
「前々から指導に来ていることもあるしね。色々と勝手が通じるから、頼みやすかったんじゃないかな」
「でも、それでも…すごいですよ。それだけ認めてくれたってことですよ?」
彼の奏でる音は、優美で厳かで、それでいて艶やかだ。
古典芸能とか詳しいわけではない自分でも、綺麗な音だと素直に感じるくらいなのだから、きっと大勢の人が彼の演奏に惹かれるはず。

「引き受けても良いものかねえ?」
「えっ!断るつもりなんですか?そんなの絶対に勿体ないですってば!」
目を輝かせて身を乗り出すあかねを、友雅は笑いながら見上げた。
「引き受けたら、演奏会の数日前から泊まり込みになるかもしれないよ」
「うん、それは仕方ないですよね。準備とか打ち合わせとか、今より多くなるでしょうし」
けろっとあかねが答えたあと、彼が苦笑いとため息。

「寂しくなっちゃう、とか思ってはくれない?」
「…え」
艶めいた眼差しを近付けられ、はっと息を飲むよりも先に、彼の唇が呼吸を塞ぐ。
一度離れても、すぐまた重なって。
唇だけじゃなく、手のひらも身体もぴったりと、透き間なく。
「こうしていると…あの日の夜を嫌でも思い出してしまうね」
夫婦になって、初めての夜。
夜の闇に包まれても浮き上がって見えた、鮮やかな紅葉の景色。
それはまるで燃える炎みたいで、眺めていた自分たちまで熱を浴びてしまったみたいな…。
朝までずっと、指輪の輝くお互いの手を握りしめていた。
----------------今と同じように。

「さて、こんな時間から甘い感触に溺れていては、仕事にならないな」
指先であかねの唇を弾き、友雅は身体をゆっくりと起こした。
「浴衣に着替えるんだろう。手伝ってあげるよ」
「あ…はい。そうですねっ」
彼に教えてもらって、何とかひとりで着られるようになったけれど、形良く出来るかまだちょっと不安。
「取り敢えずひとりで着てみますから、変なところがあったら教えてくださいね」
「はいはい。頑張ってごらん」
毎日熱心に練習していたおかげで、割とスムーズに着付けが進んでいく。

とはいえ、目の前で白い背中を見せられると…色々と男として困ることも。
「友雅さーん、後ろの帯の形、ちょっと見てくれませんかぁー?」
こちらの都合もおかまいなしで、無邪気に自分を呼ぶ彼女。
とにかく、タガを外すのは仕事が終わってから、ゆっくりと。



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Megumi,Ka

suga