胸の中のWedding Bell

 002

焼き上がったマフィンの香ばしい匂いが、オーブンの中から漂って来る。
店長の彼女は、ナッツ味ととチョコチップ味のマフィンをバスケットに移し、そこからあかねたちの分だけ取り分けた。
しっとりと甘さ控えめのマフィンは、ちょっとしたお茶うけにぴったりのミニサイズで、常に補充が必要なほど回転率が高い。

「でも、ちょっと意外だったのよね。あかねちゃんたちのことだから、もっと早いと思ったのよねえ」
あかねが仕事を終える時間に合わせて、彼はこの店に顔を出す。
それはほぼ毎日と言って良いほど頻繁で、つまりあかねを迎えに来るのが本来の目的だった。
一緒に帰る二人を眺めていれば、彼らの関係が良好であるのは一目瞭然。
「私も、ジューンブライドなんじゃないかな〜って」
「そ。あいつ誕生日が6月じゃん。それに合わせるのかと思ってたけど、こんな遅くになるとはなあ」
蘭と天真も、同じように続けた。

「友雅さんも忙しかったし、打ち合わせの時間を調整してたら、ずるずる遅くなっちゃったのよね」
だけど、時間をたっぷり掛けられたおかげで、自分でもなかなか素敵なプランが出来たと思っている。
憧れの白無垢で式を挙げて、披露宴でウェディングドレスとカラードレスを着せてもらって。
披露宴会場は小さいゲストハウスだけれど、貸し切りで使わせてもらえるから気兼ねもいらない。
料理は友雅の知人の紹介で、有名料亭の元料理長が出張して用意してくれると言うし、引き出物のお菓子も人気の和菓子屋にお願い出来た。

こんなに良い条件で揃えられたのは、何のかんのと殆どが友雅のつてのおかげだ。
古典芸能に携わっているせいで、こういった老舗に顔が効く知人がとても多い。
普通だったら門前払いされそうなところも、あっさり引き受けてくれもらってあかねも驚いた。
友雅さん、顔が広くなったなあ…なんてことを考えてしまう。
本当ならば、ここにいなかった人なのに。
まだ数年しか経っていないのに、ずっとここで暮らしている人みたい。
------不思議だよね。


「ふふっ、その様子じゃあかねちゃんは、マリッジブルー経験しないで花嫁になりそうね」
「え、マリッジブルーですか?」
そういえば、式が近付くと精神的に不安定になったり、急に苛ついたり落ち込んだりとかする人も多いと聞いた。
酷い人はその不調が原因で、婚約破棄にもなるとか。
「結婚前は準備でいっぱいいっぱいで、ホントに精神的に疲れちゃうのよねえ、奥さんの方は」
結局のところ、結婚式のメインというか主役は、間違いなく花嫁である。
だからドレス選びにも気合いが入るし、そのドレスを最高に綺麗な状態で身につけたいから、ブライダルエステなんてものに通ったりと、ボディメンテナンスも欠かせない。
その他、あらゆることに打ち合わせなどが存在して、徐々にぐったりしてしまい…
「こっちはこんなに疲れてるのに、旦那さんは"適当にやって"とか投げちゃうしね。自分だけ気を張ってるのが、バカみたいに思えちゃうのよ」
この中で唯一既婚者の彼女が、そんな体験談を話してくれた。

「友雅さんも"好きに決めていい"って言いましたけど、一緒に行くと色々提案してくれましたよ?」
最後はあかねの意見を優先してくれるが、その途中でアドバイスのような一言を添えてくれる。
あかねが気付かないところを見ていたりして、そのおかげでもっと良い条件のものを選ぶことが出来たり。
「ほら、そういうところがね、あかねちゃんたちがマリッジブルーに縁遠い理由なのよ」
「…はあ、そうなんですか…」
両親へ贈呈するギフトを選ぶときなんて、とても真剣に両親の好みを聞いてくれたりしたし。
ブライダルエステの日は夕方まで時間が掛かるので、夕飯の支度をしないで済むよう食事に連れて行ってくれる。
時々夕飯の支度も手伝ってくれるし、両親の顔を見に実家にも寄ってくれるし。
「おまえね、それがノロケって分かってんのかー!」
「え?でも別に、普段と変わらないことばっかりで……」
「それがノロケだって言ってんだよ!」
天真があかねの頭を、後ろから軽く頭をこつん、と叩いた。

--------カランカラン
金属のドアベルが揺れる音がして、入口の扉がゆっくりと開いた。
いらっしゃいませ、と店長に続いてあかねが言おうとしたが、相手が客ではないと分かると、表情が笑顔に変わった。
「姫君、お迎えに上がったよ」
友雅はあかねの手を取り、顔を近付けてそう告げる、
「またそーいうかっこつけ台詞、よく平気で言えるなオマエ。相手は嫁になるヤツだろが」
「花嫁だろうと何だろうと、あかねが私の姫君であることは変わりないからねえ」
頬に触れた唇に、思わずひゃっ!とあかねが声を上げた。
「やめれ!見ているこっちが恥ずかしいわお前ら!」
いくら店内に客が少ないからと言って、目の前でそんな堂々といちゃつかれたら、さすがに目のやり場に困る。
「そういうことは公衆の面前じゃなくて、帰ってからゆっくりやれっての」
「はいはい。天真に言われなくても……ゆっくりね?」
意味深に微笑みかける友雅の瞳は、何やら艶やかな色であかねを見つめる。
確かに普段と変わりない。
いつも彼らはこんな調子。


「二人とも送って行こうか?」
あかねが帰る支度を済ませて店に戻ると、友雅は天真たちにそう尋ねた。
天真の家はマンションとは逆方向だけれど、この店からならさほど遠くない。
その後大通りに出てしまえば、マンションの近くまで一直線で帰ることが出来る。
「あー、俺も今日は親父の車借りてるから平気。それに、コイツの買い物に付き合わんと」
隣に座っていた蘭を指差して、天真は面倒くさそうに言った。
披露宴用にレンタルするドレスが用意出来たので、これから蘭を連れてショップに行かねばならない。
「嫁でもないんだから、別にうちにあるもんで良いじゃんなぁ」
「お兄ちゃんは何でもいいけど、女の子はどうでも良くないのっ!」
「そうだよ。パーティーとか着飾れる機会なんて、滅多にないんだもん。ドレスアップしたいじゃない」
ねえ!と顔を見合わせて、力いっぱい納得しあっているあかねと蘭。
呆れぎみの天真の隣で、友雅は笑いながら彼女たちを眺めていた。


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マンションに到着して車から降りると、足早にエレベーターでフロアに向かう。
ほんの少し外気に当たっただけでも、肌の表面が凍り付くような寒さ。
木々の葉が彩る光景は秋を思わせるというのに、夜から朝に掛けては既に冬と言っても過言じゃない。
部屋に入り、エアコンをONにして。
床暖房なんて機能はないので、フロアにはホットカーペットを敷いている。
「さて、すぐに夕飯の支度しますね」
帰宅して落ち着く暇もなく、あかねはすぐにキッチンへ。
電子ケトルでお湯を沸かしながら、バスケットの中の野菜を手に取った。

「あかね、こっちで少し暖まったらどうだい?」
「でも、夕飯が遅くなっちゃいますし」
「そんなに急がなくてもいいよ。花嫁が今風邪なんかひいたら、それこそ大変だからね」
友雅はそう言って、こちらにおいでと手を伸ばした。
丁度、ケトルから沸騰完了のブザーの音がなる。
紅茶とカップを乗せたトレイを、テーブルの上に置いてポットに湯を注ぐ。
「明日は土曜だし、焦る必要はないさ」
友雅の仕事も休み。あかねのバイトも休み。
ちょっとくらい時間にルーズになっても、予定がない限りそれほど問題はない。
「それに、家に帰ったらゆっくり…って言っただろう」
彼はあかねを抱き寄せて、多分わざと耳元に唇を近付ける。

ゆっくり…さあ何をする?
二人で出来ることは数知れず。言葉を交わすことも、そして触れ合うことも。
まあ、それは追々ゆっくりと決めて行けば良い。
その時したいと思ったことを、二人で一緒に。



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Megumi,Ka

suga