Spring Has Come!

 002

「可愛い奥さんが待っているんじゃ、引き止めるわけにはいかないなあ」
リハーサルが済むと、案の定これから食事を兼ねた飲み会をしよう、との話が持ち上がった。
友雅は、あかねとの約束があるから参加は無理だと告げたところ、あっけないほどすんなり誘いは退かれた。
「早く行ってあげなさい。橘さんがいなくて、心細い思いをしてるだろうし」
「ええ、それでは失礼致します。お疲れさまでした」
春用のハーフコートに袖を通し、仕事着と琵琶のケースを抱えて、友雅は会場を後にした。

冬場に比べると、随分と陽が長くなった。
二ヶ月ほど前だったら、この時刻は完全に闇に閉ざされていたというのに、今じゃうっすら太陽の残像が空を染めている。
それでも、時間は実質変化することはない
あかねは勤め先のカフェで、自分の迎えを待っているはず。
「さて、急ぐとするかな」
姫君を待ちくたびれさせてしまうようでは、エスコートする男としては失格だ。



カランカラン、とドアベルが揺れて、店内に来客を知らせる。
「あら、いらっしゃいませ。あかねちゃーん、お迎えよ」
店の中には客はいない。
既にピークは過ぎているようで、そろそろ後片付けを始めているようだ。
店長に呼ばれて、奥からあかねが出て来た。
カフェオレ色のトートバッグを抱え、薄い桜色のショールを首に巻いて。
「それじゃ、お先に失礼します!」
「お疲れさま。例のこと、相談してみてね?」
「あ…はい、分かりました」
店を出る際、あかねは店長とそんなやり取りをして、ドアを閉めた。

陽が落ちてから、ぐっとまた気温が下がって来た。
裏手に停めてある車に急ぎ、彼女を助手席に乗せてから運転席に乗り込んだ。
「で、何が食べたいか決まったかい?」
「えっと…うーん…夜ですから和系が良いかなー」
昼間ならこってりした洋食も良いが、夜はさっぱりとした和風の味が良い。
でも、日本料理のようなかしこまったものじゃなく、もっと気軽に食べられるような感じ。
果たして彼のデータには、そのような店は登録されているだろうか。
「了解。"カジュアル"という感じの店だね?」
現代にやって来て、新しい言葉も彼はどんどん吸収し、今じゃこんな英単語や和製英語まで普通に口にする。
まるで生まれたときから、この世界に生きているみたいに違和感なく、


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居酒屋と言われればそうも見えるが、そんなに騒がしいわけでもない。
個室で仕切られた座席に通され、渡されたメニューは居酒屋と大差ないリーズナブルなものばかりだ。
「車だから、お酒飲めませんね…」
アルコールの銘柄が目立つので、本来なら酒がメインの店なのかもしれない。
だが、友雅は運転する立場だから、生憎それらをオーダーは出来ない。
「昨日言わなかったかい?私が酔いたいのは酒じゃなくて…何て言ったっけ?」
ふっと蘇る、夕べの記憶。
耳元で囁かれた甘い言葉が浮かんでは、頬に熱を浮き上がらせてくる。
「お、お腹すいちゃった…何にしよっかなっ」
パラパラとページをめくって、早くオーダーを決めなくちゃ。
照れ隠しで言葉を濁す彼女の様子が、手に取るように分かって、思わず彼は笑みをこぼした。

烏龍茶を傍らに、手鞠寿司やサラダをつまみながら、彼から今日の話を聞かせてもらう。
「最終リハと言っても、本番を二度やるようなものだね」
最初から最後まで、通しで舞台に立っての演奏だから、確かに二回公演をするのと同じだ。
違うのは、今日はホールに観客がいなかったことくらいか。
「勿体ないですねー。チケット売り切れちゃってるんでしょう?リハでも有料で良いから見たい!って言う人、いるんじゃないですか?」
一年を通して、特に春と秋には公演の回数が増える。
春は梅や桜が咲き始める季節。
会場は夜桜祭りで賑わう場所にあるため、花見を兼ねて演奏会に来るものも多い。
故に、あっという間にチケットはソールドアウト。キャンセル待ちが出るほどだ。

「当日は、ご両親も来て下さるんだろう?」
「もちろんですよ。少なくても母は、熱が出ようが這ってでも行きますよ」
大袈裟な…と彼は笑うが、まんざら冗談でもない気がする。
「是非一緒においで。あかねがいるといないとでは、私の出来は違うのだから」
常にあかねの席は、友雅が特等席を用意しておく。
一番前の、座席からも舞台からも互いが見える席。そこがあかねの指定席。
「そういえば、今回は店長さんも来るって言ってましたよ!」
「バイト先の?」
主人が二枚チケットを手配してくれたのだ、と休憩時間に教えてくれた。
こういった古典芸能は初めてなので、かなり楽しみにしているらしい。
と同時に、あかねの夫となる彼が本職に携わっている姿を、一度見てみたいという好奇心もあったようだ。

「そういえば…帰り際、相談がどうのとか言っていたね。何かあったのかい?」
「えっ?」
びっくりした。まさかそんな些細な会話を、友雅が気に留めていたとは。
"相談してみて"と、店長に言われたのは、まさに友雅に…ということだった。
「あのー、実は今のバイトのことなんですけど、これからも続けてくれないかって言われて」
「うん?今もちゃんと頑張っているじゃないか」
「そうなんですけど、もっと長期として…お仕事しないかって言われたんです」
学生の頃は学校重視だったので、勤務は夕方からの数時間のみだった。
しかし卒業した今は、時間のしがらみに捕われる必要はない。
「開店時間から、お店を手伝ってもらえないかなあって」
「フルタイムかい?朝から閉店まで?」
「ううん、違います。お店が開く10時から4時くらいまでです」
夕方からの時間は、新たに学生バイトを募集して、その代わりあかねは日中の仕事に移動してもらい、本格的に店の手伝いをしてもらう。
実際一番慌ただしく忙しいのは、ランチタイムやティータイムなのだ。

「それで…友雅さんに相談してみて、って言われたんです」
「私に?」
「うん、やっぱりその…旦那さんの承諾がないと、ダメだろうからって」
これからは一緒に暮らして行くのだ。
生活のサイクルも、二人で一緒に組み立てて行くことになる。
自分一人の判断で決めるわけには、行かなくなってくる。
世の中には、あくまで妻は専業主婦であって欲しいと言う夫もいるだろうし、共働き推進派の夫もいるだろう。
逆に妻の方も、家事に専念したいという女性もいれば、閉じこもっているのは嫌という女性のいる。
あかねの意見は直接聞けるが、問題は友雅がどう考えているかだ。
バイト時間を変えることで、夫婦間のすれ違いが起こっては困る。
なので、友雅にも相談してから決めてくれ、と店長は言っていたのだ。

「友雅さんがお仕事に出掛けるのは、9時ちょっと前でしょう?帰ってくるのは6時くらいだし、家事には響かないと思うんです」
これまでは夜遅くなるので、彼に迎えに来てもらっていたけれど、4時ならまだ全然明るい。
例えどこかで買い物して帰っても、十分安全な時間帯だろうと思う。
それに、何より勤務時間が長くなるということは、給料の金額が増えるという事実があった。



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Megumi,Ka

suga