夏の結び目

 003

あっという間に、今日という一日が終わり掛けている。
夏色の青空は既に黄昏を帯びて、黄金色に空を染めていた。
「ありがとうございましたー」
「今の時期は、遅くまで人通りが途絶えないからね。気をつけてお帰り」
生徒たちを玄関まで見送り、友雅は屋敷の中へと戻った。
陽は落ち始めているのに、まだ蒸し暑さは消えない。

冷房を止めて、座敷のガラス戸を開け放つ。
小さな坪庭に小さな池。
ゆらゆらと泳ぐ金魚たちも、あの夏から比べると随分成長した。
「君らはいつも、気持ち良さそうで良いねえ…」
つくばいから流れる水音や、植え込まれた細身の若竹の笹の色が、爽やかな涼感を運んで来る。
ほんのり残る冷房が、夏の夜風に溶けて行く。

さて、そろそろ戸締まりをして帰らねばならない。
今日もあかねが帰りを待ちながら、夕食の支度に取り掛かっているはずだ。
仕事を終えて帰路につくのが、いつもなら軽やかなはずなのに、何だかとても肩が重い。
もちろん、それには理由がある。

『後日、必ずお休みを調節させますから、今回はどうかお願い出来ませんか』
今にも土下座をしそうな勢いで、主任から頼み込まれてしまった。
こちらが最初に設定した休暇なのだから、押し切れる権利はある。
だが、ふとよぎるのは…あかねのことだ。
もしも彼女がこの事を知ったら、何と言うだろう?
京にいた頃から、他人の心に潜むわずかな傷さえも、労り、そして癒そうと勤めていた彼女のこと。
旅行なんて後回しにして、少しでも皆が安らげるように協力してあげて欲しい…と、そんな風に言うかもしれない。
例え口にはしなくとも、もしこのまま旅行を優先してしまっても、楽しい時間の中で後ろめたさを抱くのではないだろうか。
そんな気持ちでの旅行なんて、楽しいとはいえない。
心から純粋に時間を過ごせなくては、二人で旅に出ても仕方ないんじゃないか?

黙っていても、きっと彼女に嘘はつけない。
口では誤摩化しても、自分の心がそれらを糺そうと動き出す。
大切な人を騙して構わないのか?
どこまでも澄み切っている彼女の心を、自分の嘘で曇らせたらどうするつもりだ。
「…説明するしかない、か」
友雅のつぶやきに反応するように、ぽちゃん、と金魚が尾びれで水面を弾いた。



インターホンのボタンを押してから、ほんの少し時間を置く。
しばらくすると、中のロックが外れる音がして、静かに内側からドアが開いた。
「おかえりなさい、友雅さん!」
部屋から漏れてくる、ひんやりした冷気。
丁度良い温度に部屋が冷やされていて、帰宅した時に心地良さを感じるけれど、それは迎え出てくれる笑顔のせいでもある。
「お疲れさまでした。今日も暑かったでしょう?冷たいお茶入れますね」
エプロンの裾を翻してキッチンに戻り、冷蔵庫の中から麦茶のボトルを出す。
シンプルなグラスにそれを注ぐと、ソファに腰を下ろした友雅の前へ差し出した。

「あかね、実はね…話さなければならないことがあるんだよ」
「何ですか?改まって…」
「旅行のことなのだけど、白紙に戻さねばならないかもしれない」
………え?
声は出なかったが、驚いたように目を丸くして、あかねは友雅の顔を見た。
「はっきり決まったわけじゃないんだよ。ただね、色々とあってね…」
随分ともやもやしていたが、残さずあかねに説明することにした。
今回の演奏会は、今までと違う意図があること。
直接指名を受けてしまったため、こちら側としても断りにくい問題があること…等々。
隠せば辻褄が合わなくなるだろうから、面倒でもすべて伝えるつもりでいた。
そのあとで、あかねに意見を聞こうと思った。

「…そっか。そうなんですか…」
一通りの説明が終わったあと、こくり、とうなづきながらあかねが言った。
「どうしようか?100%、説き伏せられないわけではないんだけれど」
「えっ、断っちゃうんですか!?せっかく友雅さんの演奏が聞きたいって、向こうの方が言ってくれているんでしょう?」
ほんの一瞬だけ、困ったような戸惑うような顔が、次に見上げた時はすっかり晴れている。
まっすぐな瞳で友雅を見て、陰りの無い言葉で問い掛ける。
「旅行なんて、また次があるじゃないですか。でも、演奏会は来年の夏になっちゃいますよ。それに、友雅さんの音がみんなを癒せるとしたら…素敵だと思います」
その言葉に偽りが無いことは、彼女の目の輝きが伝えている。

「あかねなら、そう言うだろうな…って、思ったよ」
友雅は彼女を抱き寄せ、胸の中で包み込んだ。
試したわけじゃない。
きっとそう言って、自分の背中を押してくれるだろう…と思っていた。
普段はほんわかとして、穏やかな空気を醸し出しているけれど、彼女が発してくれた言葉のおかげで、一歩前に踏み出せたことが今まで何度あっただろう。
無意識のうちに、そんな風に道しるべを作ってくれる。
だから、今…自分はこの世界にいるんじゃないか。

「せっかく楽しみにしていたのに、悪かったね」
「ううん、そんなことないですよ。また今度、秋でも冬でも良いですよ」
来年の春に桜を見に行くとか、泳ぎたければ夏になったって、構わない。
「でも、今年は独身最後の夏なのだよ?」
「ん…。だけど、別にやり残して悔いがあるようなことは、特にないですしね」
独身じゃなきゃ出来ないことって、何だろう?
それほど必死になってまで、やることって…思い付かない。
だって、一緒になれるその日が…待ち遠しくてたまらないのに。

「何?今、どんなこと考えていたんだい?」
「えっ、な、何でも無いですよ…」
ふっと照れたように見せた微笑に気付いて、友雅が指先で顎を撫でた。
「ここに来て、隠し事は御法度。さ、言ってごらん」
意味深な仕草で顎から首を撫でながら、わざとあかねをぶるっと震えさせる。
「えっ…と、その…独身よりも、その後の方が楽しいんじゃないかなあって…思いません?」
一人同士よりも、二人が一緒になったあとの方が。
二人で同じことを考えていける、未知数の楽しみが待っているんじゃないかと。

「…ん、むっ?」
思いがけなく、濃厚な口づけがあかねを押し倒した。
「んっ、ちょっ…友雅さ…んっ?」
話そうとすると、すぐに唇を塞がれる。
一旦息を吸い込んで、また呼吸は閉ざされて。
「あかねを好きになって、良かったなあと思ってね」
「え?何でそんないきなり……」
真っ赤な顔で戸惑っているあかねに、それ以上答えず友雅はまた唇を重ねる。

言葉なんてもので、表現しきれないものがある。
例えば……君の存在がくれた至福の想い、とか。



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Megumi,Ka

suga