Cinnamon Kiss

 003

「あら、あんた帰ってたの」
冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出し、コップに注いでいるところに、風呂から上がって来た母がやって来た。
留守番をしていた父に、食事をしていくから少し遅くなると伝えておいたが。
「お母さんにも麦茶ちょーだいよ。」
「…はいはい」
あかねは戸棚から、もうひとつコップを取り出す。
フリーザーの氷を2個放り入れ、濃いめの麦茶を注いだ。
「あーあ、良いお湯だったわー。疲れが取れるわよ、アンタも入ったら?」
言われなくても、これから入るつもりだけど。
そう思いながらあかねは、リビングに掛けられている母の着物に目を移す。

「ねえお母さん…今日、何であのホールにいたの?」
洗ったばかりの髪を拭いている母に、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「何でって、そりゃ橘さんが出るからでしょうよ。」
あっさりとした迷いのない答え。
ええ、それはもう充分に分かってる。
過剰なまでの友雅贔屓の母だから、そんなの日常茶飯事だ。
けれど問題は、その情報をどこで仕入れたか?なのだ。
「急に一昨日くらいに決まったんですって。出るはずのお弟子さんが急病で、頭数が足りなかったから呼び出されたんですってよ。」
「やっぱ、そうだったんだ…」
事の発端は、母が友雅に電話をしたところから始まった。
田舎から新鮮な野菜が送られて来たから、おすそわけしたいのだけれど伺っても良いか?と(明らかに口実くさい)。
すると何やら用事があると言うので、聞いてみたら…こういうワケだったのだ。

「でも、友雅さん…私に何も言わなかったんだろ…」
一昨日だって昨日だって、電話で話したしメールも出した。話してくれる機会は、いくらでもあった。
なのに…何も言ってくれなかった。母は既に昨日の時点で知っていたのに…どうして…?
私が通ってる短大だって、名前を見れば分かったはずなのに…。
何だか内緒にされていたみたいで、ちょっと胸が切ない。


「アンタ、それは橘さんが、わざと言わなかったのよ。」
「…わざと?」
持って来たメイクボックスから、ぞろぞろとローションやクリームを取り出す。
母はそれらを順番に、ぺたぺたお肌のお手入れ中。
「楽屋の廊下で会った時もそうよ。アンタ、お友達と一緒だったじゃない。」
友達がぞろっと揃っているところで、急に恋人を紹介することになったら、気恥ずかしくて嫌なんじゃないだろうか。
ましてや母や母の友人は、自分たちが既に結婚を約束した仲なのだと知っている。
普通の恋人とは違う関係を、親しい同級生の前で披露するのは、今のあかねには気後れするんじゃないか。
「私は別にね、アンタのお友達にも自慢したかったんだけど!でも、橘さんが"遠慮しましょう"って言うからー」
あかねが落ち着いて、紹介する気持ちが整うまでは、知らん顔で通しましょう。
「そういうから仕方なかったのよ」
「…だから、シカトするみたいに出てったの?」
「そ。騒がれたりひやかされたら、可哀想だろうからって。」
……可哀想、私が。

確かにあの場所で、母がいつもの調子で騒いでいたら、彼のことを説明しなきゃいけなくなる。
母の性格じゃきっと、"うちの娘の婚約者ですの!"と、自慢げにバラすだろうし。
それを友人たちが知ったら…明日も明後日も突っ込まれること間違いない。
友人同士の遠慮ない関係であるから、どんなところまで深入りされるか。
正体も知らない友雅を、彼女たちも気に掛けていたようだし……尚更。
そうしたらきっと、大混乱でどうして良いか分からなくて、頭の中がパンクして…動揺してしまうだろう。

……私がそうなってしまうのが、可哀想だって…友雅さん思ってたの…。
そのためだったの…何も言わなかったのは。
知らんぷりして背を向けたのも、そのために…。

「あとで御礼言っておきなさいよ?アンタのこと気にして、そうやってくれてんだから。」
まったく橘さんは、優しくて素敵な人だわよー…と、相変わらず母は現を退かしている。頬がほんのり赤いのは、きっと風呂上がりのせいだけじゃなさそうだ。
「明日、電話するのよ!気を遣ってくれてありがとうございますって、ちゃんと言うのよ!」
「……分かってるよー、もう…」
先に麦茶を飲み干し、あかねは廊下に出てバスルームのドアを開けた。
むっと湯けむりが沸き上がり、ガラス戸や鏡には蒸気の滴がびっしり付いている。

明日…電話じゃなく、家に行ってみよう。
ちゃんと顔を見て、話をしたい。
鏡に映る自分の顔に向けて、あかねはそう心の中で言い聞かせた。


+++++


布団の中で、何度か寝返りを打つ。
少しずつ目覚めようとしている意識が、ピンポーン、ピンポーン、と軽い電子音を耳でキャッチする。
来客か?今日は平日だったはずだが。
平日の朝からやって来る客なんて、どうせろくなものではない。
夕べは遅かったし、ここは居留守を使ってもう一眠りする方が得策だ。

インターホンの音は、5回ほど鳴ってぴたりと止まった。
どうやら諦めて立ち去ったようだ。
これでまた、のんびり眠れる------------と思ったあと、今度は携帯が鳴り出した。
鳴ったとは言っても電話ではなくて、メールの着信音。
メールなんて、あとで時間がある時に見れば良いから、適当に放っておいても構わない。
普通ならそうやってあしらうのだが、この着信音だけは別だ。
すぐに友雅は携帯を取り、メールの確認をした。

"おはようございます。お部屋に行ったんですけど、何度かインターホン鳴らしても返事がなかったので、またあとで行きます。"

友雅は携帯を握りしめ、すぐに布団から起き上がった。
失敗した…。まさかあかねが訪ねてきていたなんて、思っていなかったから…。
しかし、訪ねてきたのなら、遠慮なく部屋に入ってくれば良いのに、何故そうしなかったんだろう?
合鍵は渡してあるし、いつだって自由に出入り出来るはずなのだが。

間に合うだろうか?
インターホンの音が消えてから、数分しか経っていない。
今から電話を掛ければ、まだその辺りにいるかもしれない。
迷うことなく、友雅はあかねの番号を発信した。


『はい』
うっすら聞こえる雑踏をBGMに、あかねの声が携帯を通じて聞こえた。
「あかね?さっきインターホン鳴らしていたの、あかねだったんだね。悪かった、セールスか何かだと思って。」
『う、ううん…。すいません、私こそ朝早く連絡もなしに行っちゃったから…』
クラクションの音が数回と、信号機の音。
それらが彼女の声をかき消してしまう。
「…近くにまだいるのなら、すぐに戻っておいで。起きて待っているから。」
一時でも見つめていたい彼女の顔を、見ないで帰してしまうなんて…出来ない。



+++++

Megumi,Ka

suga