|
ひっそりとした、人の気配のない部屋の雰囲気は変わっていない。だからと言って散らかっているわけでもなく、無駄がない、といえばそうに違いない。
いつものようにあかねは背を向けたままドアを閉めて、広さを際立てるような殺風景なリビングに足を踏み入れた。
先に部屋に入っていた友雅は、ベランダに向いた窓に背を持たれて腰を下ろしていた。
「友雅さん」
あかねが名前を呼んだが、彼は顔を上げなかった。振り向こうとしなかった。
静かな夜。雨音しか聞こえない、薄暗い部屋に二人のかすかな吐息だけが空気と溶け合って流れている。
しばらくそんな場面が、ストップモーションのように続いていた。
「何度か電話したけど、出てくれなかったでしょ。電話もしてくれなかったし………」
あかねが口を開いた。友雅はふと顔を上げて、うっすらと照らす月明かりを背中に受けてこちらを向いた。
「悪かったね。気分が優れない日が続いていて、そういう気分じゃなかったんだ」
「…具合悪かったの?」
「……この世界に慣れたと思って、少し無理しすぎたかもしれないな」
友雅の言葉に、少しだけあかねの胸の中が痛んだ。
ずっと考えていたことだ。『友雅をこの世界に呼んでしまって良かったのか』という思いと迷い。
ただ自分だけが彼と一緒にいたい、という願いだけを強く抱きすぎて、本当に彼が生きられる場所から横暴に引き離してしまったんじゃないのか、ということ。
「友雅さん……向こうに…京に帰りたい?」
思い切ってあかねは、そう尋ねた。友雅は物憂げな瞳をしてこっちを見る。
「どうしてそんなことを?」
「どうして……って…………何だか、最近の友雅さんを見てると……ここにいるよりも京にいたときの方が生き生きしてるように見えるから…」
「生まれ育った世界と今の世界では違いすぎる。生きるための波長も今までのようにはいかないさ」
「だけど………」
それでも、今の友雅の表情を見ていると………。
「今の友雅さんを見てると……この世界に連れてきちゃいけなかったのかな…って思っちゃうよ」
言葉を吐き出したあと、心がずきずきと小刻みに痛み出す。あかねの心音が不協和音のように波打つ。
「ここに来ることを決めたのは私だよ。」
「でも………遠い目、してるから………。ここじゃないところ、見てる気がする……」
そうあかねが言うと、友雅は少し時間を置いてから前髪をかき上げて苦笑した。
「ここではないところを…見ている、か。まんざら間違いではない…よ。」
はじめて友雅はあかねの方に体を向き直し、丁度真正面に見つめられる姿勢になった。
彼の背中がうっすらと黄金色に見えるのは、少し高く昇った月のせいだろう。
「私は、君がいなくては生きてはいけない男だよ」
ぽつり、と友雅の独り言のような声がした。
「ここしばらくの間、ずっと同じ事を考えていた。向こうの世界でならば、私は君を守ることが出来た。だが、この右も左も分からない現代の世界では、前を向いて歩くことが精一杯だ。君を守ることなど出来るかどうか分からないっていうことをね……」
目を伏せて、友雅は頭を抱えるようにして笑った。
「……そんな不甲斐ない男なんだよ、この世界での私は」
こんな表情の友雅は、今まであかねは見たことがなかった。
いつでも自分より一回り大きな範囲で物事を見据えることが出来て、余裕さえ兼ね備えてそこに存在していたはずだった。
だけど、それはあかねの中で捕らえていた友雅の想像の姿であって、本当の彼がどんなものかなど、誰も真実は知るはずがないことだった。
「それなのに……何も出来やしないというのに、私は……君を手放したくないと思う。」
見つめ合っているわけでもないのに、どきん、と強くあかねの心臓が揺らいだ。
更に友雅は、静かに言葉を続けた。
「ずっと離さないで、腕の中に閉じこめてしまいたいと思ってしまう。だが…そのあとのことを思うと、時折ためらってしまうんだよ。君の幸せが私の腕の中にあるか、ということに疑問を抱いてしまっている」
友雅は自分の手のひらを開いて見せた。
あかねよりも太くて長い大きな手、ごつごつした感触はないけれど、暖かくて包み込むようなホッとする感触の手のひら。それらをじっと見る。
「だが…やっぱり私は……君を離したくない。君のそばにいたい。ここのところ、ずっとこんな調子さ。何度も同じ事を繰り返しては、ため息ばかりついて何もかも上の空だ。大の大人の男がやることじゃないだろう?みじめなものだよ」
そう言いながら情けないように友雅は自分を笑った。
今まで適当にすり抜けて、気楽な道を生きる術を使っていたのに、今は余裕がまるでない。
あかねのことを考えると、周りの世界がぼやけてしまうこと。気付くと時間が早急に流れていて、慌てて追いかけるのが精一杯だ。
時間に置いていかれないようにする。だけど、あかねがそこにいたら……立ち止まってしまう。どうしてもそれは克服出来ない。あかねに想いを抱いてから……元の自分には戻れない。
「この世界にいる私では、君を幸せにすることは不可能に近いかもしれない。そんな男が、君を愛する資格などあるんだろうかね?頼ることも出来ず、ただ君を見ているだけしか出来ない男なんて、何の価値もないと思わないかい?」
こんな泣き言に近い言葉をあかねの前では言うものか、と自分を閉じこめていたはずだったのに。一度堰を切った想いは止まらずにこぼれ出す。
自分の力のなさを誇示するという、全く無意味なことだと知っているはずなのに。あかねの前で嘘をつくことも、隠し事をすることも出来なくなっている。
「永遠だと思っていたことが、とてつもなく今は不安で仕方がない。君にとって私でなくてはならない何か代え難い意味が、果たしてあるんだろうかと思ったら……………」
自分でも信じられないほどに気弱な言葉が滑り出す。
強ければ強いほど、自分を見つめたときに立ち往生する嫌悪感。ここしばらく友雅はそんな感覚にがんじがらめにさてれいたと言える。
その時。
突然あかねが自分から友雅に近づいて来た。細い両手を思い切り広げる。そしてそっと彼の身体を抱きすくめて唇を重ねた。
はじめて…自分から重ねた唇は離すタイミングをなかなかつかめずに、しばらくそのままでいるしかなかった。
時間が二人の周りで、ゆっくりと流れて行く。
言葉も音も何もなく、感じるのは相手のわずかなぬくもりしかない。
目を閉じて、雨音に耳を傾ける。
離れたくない。このままずっと、少しでも良いから相手の存在を感じていたい。
消えることのない強い残像が、確かな形になって目の前にある。
|