熱愛イニシアティブ

 002

「さっきのは、仕事の電話?」
「そうです。午後から警察署での会見に、行くようにって連絡です。」
トースターから香ばしい匂いがして、チン!と軽やかな音が鳴る。
デスク兼用のダイニングテーブルの上。
コーヒーメーカーから、しずくが滴り落ちる音。
古びたワンピースを部屋着にして、忙しくあかねは新聞や雑誌を片付けている。

「よく働くねえ。少しは休めないのかい?」
「新聞記者には、そんな余裕はありません。」
雑誌をまとめ終えて、トースターから焼けたパンを皿に乗せる。
適当にバターやジャムと塗りたくって、かじりながらコーヒーをカップに注ぐ。
まだ二十歳そこそこの女の子なのに、これじゃワーカーホリックの男みたいだ。
「食事の時くらい、ゆっくりしたらどうだい。消化に悪いよ。」
そう言ってもあかねは聞く耳持たず、言ったそばから冷蔵庫を開けて、作り置きのピクルスを数種類取り出した。
忙しい毎日のため、こういった保存食を作り置きしておくと、何かと楽だ。

「睡眠不足も、美容にも悪いんだよ」
彼が言ったとたんに、あかねはムッとして友雅を見た。
「疲れて帰って来たらね、少しでも長く眠らないとダメだよ?」
「あのですね、お言葉を返すようですけど、友雅さんそーいうこと、言える立場だと思ってんですかっ!?」
ゴトン!とマグカップをテーブルの上に強く置いて、あかねは意思表示する。
夕べだって、自宅でゆっくり休めるはずの、貴重な夜だったのに。
どっぷり二日間疲労困憊で、絶対爆睡してやろうと思っていたのに…そういう時に限って、何故か手強い相手が部屋で待ち構えていた。
そして一夜明けた朝……彼はこうして目の前に座っている。
おかげでこっちは寝不足なのに、入れ立てのコーヒーを暢気に啜ったりして。

「あとね、もう少し大きいベッドの方が良いんじゃないかと思うんだけど。」
「…何でですか。一人暮らしでセミダブルだったら、もう充分過ぎです。」
ホントならシングルで事足りる。
けれど少ない睡眠時間で疲れを取れるよう、手足を伸ばせるサイズを選んだのだ。
おかげで普通なら、のんびり良い眠りが出来るはずなのだ。
"普通なら"だが。
「セミダブルに二人は、ちょっと狭いと思わないかい?」
そう、彼が一緒じゃなければ…だ。

「だったら自分の部屋に帰って、ゆっくりお休みになられたらどーですかー」
ちらりと横目で見ながら、皮肉たっぷりの口調であかねは答える。
彼のマンションは、大通りを越えた先に広がる、広大なパーク沿いにある。
数回訪れたことのあるそこは、地上12階建ての高層マンション。
もちろんここよりも新しく綺麗で、更にもっと広くて、設備も勿論近代的に整っているし、ベッドルームもキッチンもリビングも独立しているし。
それに……ここよりも倍の賃貸料である。
「友雅さんにとっては、そりゃセミダブルなんて狭いでしょー。元々ダブルのベッドですもんねー。」
「広い方が都合が良いだろう。何しろ動きやすいし。ねぇ?」
"ねぇ?"って、妙に含んだ言い方をして、あかねを見る視線はやけに艶っぽい。
その眼差しに気圧され、これまでのように、言い返す言葉が浮かばなくなった。
パンを飲み込もうとしても、喉が渇いて詰まりそうだし。
コーヒーを流しても、何かすっきりしないし。
おまけに、何だか身体が脈打つような気もする。

と、突然あかねの目の前に、細長いピンクの封筒が差し出された。
バラの透かし模様が入った表面に、上品な書体で店名ロゴが記されている。
「これをあげるから、時間が出来たら行っておいで。」
中身を開けると、出てきたのは有名なエステサロンの無料チケット。
よくセレブな連中が通うと聞く、この街でもトップクラスの高級エステだ。
しかもチケット内容は、マッサージからリラクゼーションまでの、完全フルコース5枚綴り。
一体1回分で、どれくらいするんだろう…と、庶民的なことを考えていると、友雅は椅子から立ち上がった。
そしてあかねの背後に回り、彼女の肩を軽く揉みほぐす。
「疲れを癒して、外も中も綺麗になって来なさい。」
「え、あの…」
それだけ言うと、ぽん、と肩を叩いてあかねから離れた。
カップのコーヒーはまだ残っている。
けれど友雅はジャケットを手にして、迷わず玄関へと歩いて行く。

「帰るんですか」
「自分の部屋に帰れって言われたし」
それは言葉のあやで…別に本気だったわけじゃ…ないのに。
邪魔なら夕べのうちに追い出していたし、こうして朝まで一緒に眠ったりしなかったのに。
「チケットが足りなくなったら、また融通聞かせるよ。それじゃね、久々に良い夜と朝をありがとう。」
帰り際にキスだけを残し、友雅はあかねの部屋を後にした。


+++++


"CLOSED"の看板が掛かったドアを、友雅は遠慮なく開けた。
薄暗い店内には、人の気配は殆ど無い。
ステージのグランドピアノも、天井から下がるシャンデリアも、眠っているかのように静かだ。
「おや、今日は随分と早いんじゃないの?」
従業員室から出てきたのは、金髪の女性。
スワロフスキーのコームでアップにした髪から、しなやかに伸びる白いうなじが目に眩しい。
まだまだ準備中な時間だというのに、そのまま店に出てもおかしくないほど、まばゆい艶やかさを醸し出す。
「家にいても暇で。たまには、開店前の支度をしっかりやろうかと思って。」
「ふーん?珍しいこともあったもんだわね。」
華やかなワインレッドのドレス姿には、明らかに不似合いとも言えるモップを手にして、彼女はフロアの掃除を始める。

昼間は人通りが少ない街だが、日が落ちれば一気に賑わいを増す。
溢れるネオンに誘われるかのように、店の前にずらりと並ぶのは高級車。
パートナーを連れて訪れるのは、顔も名前も知られた一流の者たち。
酒や料理を味わいながら、流れるジャズに身を任せる。

消費制限されているとはいえ、夜を楽しむには酒は必要不可欠。
独自の合法ルートを確保したこの店では、良いラベルが楽しめると評判が高い。
一般庶民には、なかなか手に届かないもの。
それによって物騒な事件も起こっているというのに、上流階級の輩はこんな店にやって来て、金さえ出せば簡単に味わうことが出来る。
まったく、実に不条理な世の中ではある。


女性オーナーのシリンが、店の隅にあるテレビを着けた。
掃除中のBGM代わりにと思ったのだが、流れてきたニュースの内容に、彼女は手を止めて画面を見る。
「最近になって、またあの名前が上がるようになったねえ」
モップにもたれるような格好で、シリンはつぶやく。
友雅も彼女に習ってテレビを見る。
それはある事件についての、警察の記者会見だった。



-----

Megumi,Ka

suga