熱愛イニシアティブ

 001

街を包む夜の闇は、黒いオーガンジーのカーテンのように揺れる。
深まり行く時間の中、行き交うヘッドライトと、消えることのない店の明かり。
スタンダードナンバーをBGMに、指先にワイングラスをそっと乗せて。

赤い唇で笑う女と、リボンタイを少し緩めて、その手を取りフロアへ向かう男。
シャンデリアはダイヤモンド。
ピアノのメロディーはエメラルド。
店の外には、サファイア色の空。
そして、男と女の心の中には-------情熱のルビー。

甘いワインによく似合うのは、退廃的なけだるい女性のヴォーカル。
トパーズ色のグラスを傾け、ほろ苦いシガレットの煙が溶け合う。
一夜のダンスパートナーを求めて、きらびやかに着飾った男と女は星の数。

恋の歌が終わりを迎える朝には、またいつもと同じ喧噪。
まるで人生のように、享楽の夜を誰もが謳歌する。


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かなり遠くで、けたたましいクラクションが響いている。
この部屋は路地裏にあるのだが、一本ほど道を越えれば大通りが目の前だ。
四六時中人と車が行き交い、夜中だろうが明け方だろうが、静けさなんてものには縁遠い。
さっきのクラクションに混じって、別のクラクションの音も聞こえる。
おそらくまた朝っぱらから、事故かケンカかで騒いでいる者がいるんだろう。
……目覚まし時計のベルではなく、こんな騒音で目覚める朝。
別に、珍しいことでもない。
むしろこちらの方が、日常茶飯事と言えるかもしれない。

落書きの残る外壁だけではなく、設備もあちこちが古びたアパートメント。
エレベーターは二つあるが、一個は故障していて動かない。
階段の踊り場の窓は立て付けが悪くて、今じゃただの明かり取り。
歩くたびに軋む階段を上がって、やっと辿り着いた我が家は地上7階建ての5階にあるワンルーム。
それなりの広さだけはあるけれど、キッチンもリビングもベッドルームも独立されていない。
バスルームとサニタリーも、カーテン一枚で仕切られているだけ。
エアコンは効きが悪いし、シャワーの出も良くない。
バスタブに湯を張っている間は、キッチンで湯が出て来なかったり…と、散々なことばかり。
それでもこの立地を優先したら、贅沢は言っていられないのだ

新聞記者なんて仕事をしていると、24時間は常に不規則に動く。
明け方に帰宅して、数時間眠ってすぐに出社…なんてこともザラ。
下手すれば、3日くらい帰って来られないこともある。
たとえそれが、若い女の子であっても容赦はされない。
せめてアパートと会社が近ければ、移動距離も短く済む分、家に戻って休む時間を長く取れる。
だから、こんなに古いアパートを借りているのだ。
もちろん他にも賃貸物件はあるし、新しい設備の整ったところは山ほどあるが…ここより倍の賃貸料と言われたら、我慢するしかない。

まだまだしがない、新人記者だし。
でも、女だからって甘くみられるのも嫌だし。
寂れたアパートで暮らしながら、今日も騒々しい朝がやって来る---------。



ピピピ…ピピピ…
目覚まし時計ではなく、これは電話の呼び出し音だ。
あかねはベッドから飛び起きて、窓辺に置かれた電話を慌てて取り上げた。
ちなみにこんな場所に電話があるのは、寝ていてもすぐに連絡が取れるように、という理由がある。

「おはよう…ございます…」
『おう、朝早く悪いな。まだ寝てたか?』
「はぁ。二日ぶりに自分のベッドで寝られたから…」
二日のうち、一日は朝まで外で張り込み。
次の日はオフィスで、張り込みを引き継いだ同僚からの連絡待ち。
やっと帰って来られたのは…日付が変わって一時間ほどした頃だ。
『せっかく休んでたのに悪いけど、今日の午後、警察から事件の発表があるってさ。おまえんちから警察署って、近いだろ。一緒に行けってボスに言われてさ。』
ちなみに電話の相手は、二つ年上の記者。
名前を天真という。
勤務も年もあかねより上だが、社内では年が近いせいで気が合うため、何かと一緒に組むことが多い。

『午後2時から会見だって言うから、1時頃に近くのデリで待ち合わせ…ってな感じで良いか?』
「あー…はい、おっけー…大丈夫です〜」
徹夜続きが一旦途切れたと思ったら、もう次の仕事か。
肩も凝っているし、腰も痛いし。
今日くらい休ませてくれても良いだろう、と身体が叫んでいるような気がするけれど…仕方ない。
追いかけているのは、真相をつかめれば国中から注目されるほどの、大物相手の事件なのだから。

「はあ。気持ちを切り替えて、今日も頑張りますか…」
受話器を戻し、万歳するようにぐうっと腕を広げた。
肩や手足がぽきぽきと軋んで、まだ疲れが残っているのは明らかだ。
外を覗くと…天気は上々。
窓に掛かるブラインドをすり抜けて、差し込んで来るわずかな朝の陽射し。
クリーム色のベッドカバーの上に、グレーのストライプ模様の影が伸びる。


そんな中、後ろから伸びて来た手のひらが、するっと彼女の腰のラインを撫でた。「ひゃ、きゃああっ!!!」
悲鳴のあとで、鈍い音。
そして、ベッドにうずくまる人の気配。
手元にあったクッションを掴んで、振り返りざまにそれを思いっきり、彼の顔に押し付けてやった。
「…酷いことするなぁ、目覚めたばかりだっていうのに。」
「ど、どっちが!!…今っ、今、私のお尻触ったでしょう!やらしいっ!!」
「そんな可愛いものを、こちらに向けている方が悪い。」
ボスッ!と二つ目のクッションを、投げつける。
しかしそれは難なく避けられてしまい、床の上に転がり落ちた。

「久々に二人で迎えた朝なのに、ロマンチックな雰囲気はないものかねえ?」
「そーいうことする相手に、そんな気は起きません!」
ぷうっと不機嫌そうにぼやくあかね。
しかし彼は応えている様子もなく、微笑みながらベッドに再び寝転がり、彼女の姿を眺めている。
「…なんですか!何か言いたいことでも!?」
「いや、やっぱりシルクのキャミソールって、良いなあと思ってね。」
あ、また何かろくでもないことを考えている…!
そう直感が動くと、予想通り彼の手がキャミソールの裾をつまんだ。
「身体のラインが光沢で綺麗に浮かんで、脱がなくても結構そそられるものが…………ぷふっ!!」
やや傾きがちな発想の冗談も、ここらで一旦懲らしめておかないと!
あかねは枕を掴むと、思い切りそれで友雅の顔をはり倒した。
が、彼はうつぶせのままで、くすくす笑いながら背中を見せた。



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Megumi,Ka

suga