俺の天使に手を出すな

 第1話 (1)
高い天井に吹き抜けのロビー。
大きな窓からは、朝から晩まで明るい日差しが入り込んで来る。
白い壁、白大理石の床…どこを見渡しても殆どが白一色。院内はいつも眩しいほどに明るい。
今朝も早くから患者が絶えない。科を問わず、診察室の前には人が並んでいる。
「では、お大事に。番号24番の患者さん、お待たせしましたー、中へどうぞー」
治療済みの患者と入れ違いに、また新しい患者を招き入れる。
繰り返されるこの仕事は、一旦休憩となる昼休みまで延々と続く。


そんな慌ただしい外来病棟の本館とは対極に、南館の6階にある大会議室では、外科医たちを中心にした会議が行われていた。
単なる医局の会議ではなく、少し今回は大掛かりな話題がテーマとなっている。

「そういうわけで、今週土曜の午後に患者は来日し、そのままこちらの病院にやって来るとのことで連絡が付いております」
ホワイトボードを背にし、準教授が一通りの説明を続ける。
出席者たちに渡された書類には、患者のカルテと共に簡単な身分証明らしきものが加えられていた。
そして、世界地図のコピーまで。
「患者は、自身が持っている油田の作業見学中、事故に遭い両腕・両足に深い火傷を負いました。更に左膝の骨折が複雑な状態にあり、自国の専門医では治療が無理と言われたそうです。」
「油田のオーナーねえ…。つまり、オイルダラーってことかい」
「橘先生、そういうレベルじゃありませんよ、彼は」
手元の書類を見ながら説明を聞く友雅に、小児外科医である藤原が地図に記された国を指差す。
「小国ですが、ここは石油産出国として名高い国です。彼は、そこの王族…第四皇子ですから。」
「はあ、王族様か…」
現実味のない話だな、と友雅は思った。

第四皇子となれば、王位継承の権利はあるとしても…よほどの事がなければ可能性はないだろう。
だが、それでも皇子は皇子。
玉座が遠いだけに、かえって自由気侭な豪遊生活を送っているに違いない。
ここまで話を聞いても、映画か物語に出てくるような輩としか思えない。

準教授が話を続ける。
「患者と同行し来日するのは、正妻の女性とご子息、執事、ドライバー、召使いが3人と専属医が2人です。」
「ちょっとストップ。そんなにぞろぞろ大人数でやって来て、どこに居座るつもりだい?いくらEX室を利用すると言っても、そこに人数分の簡易ベッドを持ち込むのは無理だろう?」
桁外れな来日メンバー数を耳にした友雅は、口を挟まずにはいられなかった。

説明しよう!
"EX室"とは、この病院内での俗称である。
大病院によくありがちな、VIP専用の個人病室のことで、その中にも松竹梅のようなレベルがある。
この患者が利用する病室は、EX=EXCELLENTの名前で分かる通り、特別室の中でも最高級の部屋のこと。
ホテル並みの広いベッドルームとは別に、キッチンやユニットバスとシャワールーム、応接間にはAV機器が完備されており、会議室やPCルームもついている。
更に専用の受付入口があり、医師や看護師たちであっても、受付で許可を取らねば入れない。完璧なプライベートルーム仕立ての病室だ。
1日の利用料金は…およそ20万円。
それをこの患者は、まるまる1ヶ月間利用だ。既に料金は前払いで済ませてある。
治療方法や回復状態によって、それ以上の期間が掛かる可能性もあるが、それにも相手は動じなかったそうだ。

……桁外れすぎる。
この病院では比較的高給取りに入る友雅でも、月40万円ほどのマンション暮らし。
相手はその月額を、2日で簡単に消費してしまうとは。

そんな事を考えている友雅に、向かいに座っていた教授が口を開いた。
「いや、病室に常駐するのは執事の方のみだそうだ。他の方は折々に入れ替わり、お世話にやって来るそうだ。」
「やって来るって、どこからです?」
「近くにパレスロイヤルホテルがあるだろう。あのワンフロアを、スタッフ用に1ヶ月ほど契約しているらしい。そこなら、こちらに通うにも徒歩圏内だしな。」
話を聞いていたドクターたちが、ざわめき始めた。
中には、感嘆の声を上げている者もいる。
そりゃそうだ。
1日20万の病室を利用しつつ、10人近い同行スタッフの滞在する部屋を、老舗中の老舗の高級ホテルに用意するなんて。
「医師会の食事会くらいでしか、行ったことないよ、オレ…」
外科医の誰かが、ぼやく声がした。
そのホテルも、シングルルームで、普通のホテルのデラックスツインレベルだ。

「ま、簡単な説明はこんなところです。執刀医は患者側の要望で、橘先生にお願いすることになっておりますので、くれぐれもよろしくお願いします。」
「はいはい…相手は凄そうだけど、こっちは普通に治療させてもらうよ。」
友雅はぬるいコーヒーを飲み干して、書類を適当にファイルの中へと放り込んだ

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「ナースステーションでも、すっごい噂になってますよ、今回の患者さん!」
ようやく会議から解放されたのは、昼休み10分前。
今日は非番だと言うのに、この会議の為にわざわざ病院に呼び出されてしまった。
貴重な休日が潰されて不満が残る。
だからこういう時は、天使に甘えさせてもらわなきゃ、割にあわない。

「しかし…こんな人間が世の中にいるのかねえ?私たちの部屋の賃貸料が二日分のEX室だよ?」
「でも、実際にたまに使う人もいますしね…。どっかの会長さんとか。」
そうじゃなきゃ、あんな部屋を維持する意味がない。
少なからず、需要があるから設置してあるのだ。


屋上は風が冷たいけれど、二人きりで過ごしやすい。
特に南館は研究室が多いので、人も多くないし騒がしくもない。
フェンスにもたれるあかねの膝を借り、遠慮なくごろりと横になることも出来る。
「お休みだったのに、会議で呼びされちゃって残念でしたね。」
向こうが執刀医をリクエストしなかったら、もう少し朝寝坊出来たのに、と友雅は笑った。
だが、彼くらいのドクターだと、こういうこともしばしば起こる。
誰だって、出来るだけ技術の高い医師に治療を頼みたい。
要望を言えるなら、言っておいた方が得だと思って指名する。
故に友雅も、リクエストが立て続けにやって来るのだ。
「外国の皇子様から、直々のご指名ですよ〜?大変ですけど、頑張らないといけないですね。」
同僚に貰ったオレンジを丁寧に剥き、一房をあかねは彼の口にぽとんと落とした。

「で、近々その患者の看護担当を選ぶから、ちゃんと用意しておくようにね。」
「え?これから決めるんでしょう?それ。」
結婚しているとは言え、一夫多妻制が許される国の若い皇子。
独身女性の看護師たちは、彼の看護担当にしてもらえるかどうか、ソワソワわくわくしている。
「何人かに頼むことになるだろうけれど、一人はあかねに決めてるからね。」
「私がやるんですかー!?今日の会議で決まったんですか?」
「いや、私が今決めたんだよ。」
友雅はゆっくりと身体を起こした。

「患者の世話も大切だけど、執刀医のメンタル面を最高に保つのも重要だろう?その為には、あかねが適任だと必要だと思ったのでね。」
「まーた、そういうことばっか言って…」
呆れるように言いながらも、くすっと笑うするあかねに友雅は近付く。
風の穏やかな屋上で交わしたキスは、甘酸っぱいオレンジの味がした。

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慌ただしい日々が続き、あっという間に土曜日の朝。
会議室に集まった面々を前に、執刀医である友雅が話を始めた。
「というわけで、本日から一応1ヶ月間という予定だけれど、このチームで患者の治療と看護にあたることになるので、よろしく頼むよ。」
彼の他に、助手を任された2人の外科医に加え、研修も兼ねて参加させることになった、スポーツ整形外科の森村。
そして…5人の看護師。20代の看護師を男女2人ずつと、もう一人は…完全に友雅の意向で選ばれた彼女である。
だが、今や彼女の業績は誰もが認めるところ。
こういった大御所相手に、引き抜くのは困難ではなかった。

「看護についてだけれど、患者には奥さんの他に執事や召使いなどがいるから、日常生活に関することは手を貸さなくても良いだろうと思うよ。相手は私たちの価値観とは違う世界の人間だから、やりにくい事もあるかもしれないけれど…ま、あまり深入りせずにお願いするね。」
「はあ〜…確かにこりゃあ、何かの登場人物みたいな肩書きッスよね。」
呆れるような溜息のような声で、森村はカルテを見ながら言った。

白衣のポケットの中で、友雅のPHSが震えた。
すぐに通話に出ると、相手は受付の女性職員からだった。
一言だけ返事をしてから、パタンと彼はPHSを閉じる。
「患者様がご到着されたようだ。さあ、お迎えに伺おう。」
はい!と引き締まる返事が返って来ると、友雅は皆を連れて会議室を出た。


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Megumi,Ka

suga