テーブルの上に置きっぱなしのウォータージャグ。
冷蔵庫に戻さねばぬるくなってしまうと、分かっていながら放置している。
氷をたっぷり入れたグラスに、注がれた濃いめのアイスティーも、そろそろ飲み頃になっている。
なのに、あかねは携帯を握りしめたまま、ぼうっとリビングに座り込んでいた。
広い部屋の中で、フロアライトだけが輝いている。
間接照明はぼんやりとした光で、とても明るいとは言えないけれど、今はこれくらいが丁度良い。
普段浴びている明かりでは、身心も受け入れきれなそうで。
手の中に携帯があるのに、あかねはそれを眺めているだけだった。
モニタ画面をたまに見たりして、時折何気なく通話履歴を表示してみたり。
つい最近の履歴に映る名前は、鷹通の名前と電話番号。
彼の携帯じゃなく、鷹通の携帯だ。
本人に直接聞けば良かったのに、何故だかそれが出来なくて。
気付いたら、鷹通に連絡していた。
いつもいつも、鷹通には申し訳ないことばかりだ。
優しくて真面目で、彼に一番近いところにいる人だから、甘え過ぎてしまうのかもしれない。
プライベートのことなんて、全然関係ないのに。
この間だって急に店に行ってしまい、開店中だったのに慌てさせてしまって。
友雅へのプレゼント選びにも、アドバイスをもらったりしたこともあった。
…ホント、迷惑ばっかり掛けてる…。
お仕事中にドタバタさせるなんて、業務妨害してるようなもんじゃない。
何やってるんだろ、私。
彼の仕事の邪魔はしちゃいけない…なんて思いながら、結局は余計な手間を掛けさせて。
こんなんじゃ…仕方ない。
お店のことなんて話したって、しょうがないよね…。
邪魔になってるだけじゃない…。
部外者でいるほうが、よっぼど有り難いよね…。
喉の奥がきゅうっと詰まって、目の奥がじんわり熱くなった。
あかねはアイスティーをぐっと飲み込んで、何とか気を紛らわそうとした。
----------軽やかに響く、インターホンの音が聞こえた。
デジタル時計の数字を見ると、もうすぐ午後11時。
相手が誰か分かっていても、彼にいつも言われている通りに、モニタで外を確認してからロックを開ける。
立ち上がって、まずモニタのところへ移動。
だが、それを待たずにロックが解除され、玄関のドアが自分で開いた。
「友雅さ…ん…」
彼が先にドアを開けることは、今までに一度だってなかった。
ここは彼の部屋なのだし、彼が自分で開閉出来る権利も方法も得ている。
自分で鍵を開けて入って来ることくらい、当然のことではあるのだが、彼女にロックを外してもらってから、部屋に入るのがいつもの彼だった。
「お、おかえりなさい…」
玄関に行き、ブリーフケースを受け取る。
彼の手が肩に伸びて、おかえりのキスと思いきや、彼の唇はあかねの髪に触れた。
「そっ…外、雨降ってましたっ?」
「ああ、ちらほらね」
「そ、そうですね。今日は夜遅くから、雨って予報にもありましたもんね…」
ブリーフケースを抱えたあかねを、友雅は腕に抱く。
会話が少しぎこちないけど、無言でいるよりはマシだ。
「の、喉乾いてません?アイスティー冷えてますよ?カ、カフェインなしだから、夜に飲んでも大丈……」
「あかね」
どきん。
名前を呼ばれて、心音が大きく響いた。
初めて自分を名前で呼んでくれた時とは、全然違う心音の揺れだ。
「……少し、話をしよう」
ふっと腕の力が緩んで、あかねは友雅から開放された。
立ち話で済むようなことじゃない。ゆっくりと腰を据えて、話をしなくては始まりも終わりもない。
彼女に伝えなければならないことは、知ってもらわねばならないことは、あまりにも多い。
それらはすべて、積み重ねた時間が長いほど大切なものばかり。
そしてそこからまた、新しい何かを紡ぎ出すためにも、知らぬ振りは出来ない。
+++++
金曜日の夜。
明日もあかねは仕事なので、普段なら遅くならないよう寝かせてくれる。
けれど……今夜はどうだろう。
アイスティーの入ったグラスは、テーブルの上にふたつ。
氷によってお茶が少しずつ色を薄め、時間の経過を表している。
まるで、水時計のようだ。
友雅はソファに腰を下ろし、身体を背もたれに預けたまま目を閉じ、天を仰いだ。
あかねはといえばフロアに座って、グラスを前に黙っている。
テレビも付けず、音楽も流れていない。
窓を開ければ波の音が聞こえ、涼しさを醸し出してくれるけれど、いつ降り出すか分からない天気では、開け放つことも出来なかった。
……ここまで、来てしまったか。
ひとり、彼は自分に対してつぶやいてみた。
もっと形が整ってからと思っていたけれど、運命というものは意外とせっかちで、待ってくれなかった。
いや、もう十分待ってくれていたのだろう。
自分がうやむやにして、わざと時間を長引かせていたのだ。
目の前にある大切なものを、永遠に手放さないために必要なこと。
それを考えながら土台を固めていたが、まず一番に重要なものを乗り越えなくてはならない。
決心とか、勇気とか…そんなことをこんなに真剣に考えたのは、生まれて初めてのことだった。
だからここまで来てしまったけれど。
……そうだね、口にしなくては伝わらないね。
少しだけ呼吸を整えて、友雅は姿勢を正し、ゆっくり目を開いた。
「あかね、さっきは鷹通に、何を聞きたかったんだい?」
友雅が声を上げたとたん、あかねはびくっと背中が震えた。
一瞬で、自分の行動が蘇ってくる。
友人たちと別れたあと、タクシーを待ちながら『JADE』に電話を掛けた。
店に直接電話してみれば、営業しているのか定休日なのか分かる。
金曜日は営業しているはずだから、マネージャーの鷹通が電話に出てくれるはずだった…。
なのに、向こうから聞こえて来たのは、事務的なアナウンス。
"申し訳ありませんが、本日は定休日となっております。後日、またのお電話をお待ちしております"