コンコン、と再びノックが部屋に響いた。
失礼します、と断りと入れて入って来たのは、彼とはまた違った雰囲気の青年だが、普通の従業員にしては見栄えが良い。
「おい、早くフロアに戻れよ。リーダーが呼んでたぞ」
「いや…せっかく橘さんの恋人さんがいるんで、例の話を聞こうと思いまして」
もしかして、彼も同じ同業者だったのか?
そういう店に似合いそうだし、やけに二人とも親しげだし。
「移転するとか閉店するとか…そういう話、橘さんから聞いていませんか?」
「あの…私」
答えることさえ出来ないあかねは、言葉を詰まらせるだけ。
何も言えない。噂しか聞いていない。
本当のことを何も知らない。
「バカ!突っ込むなよ!そういうのは、普通外部に漏らしたりしないだろ。企業秘密だし」
後ろから青年が、彼の肩を引っ張り上げた。
「すいません!コイツ…調子に乗ると、ホント遠慮がなくて」
「いえ…大丈夫です」
申し訳なさそうに頭を下げる青年に習って、慌てて彼も頭を下げた。
彼らが部屋を出て行ったあと、急に静けさが戻って来る。
冷たい烏龍茶のグラスに手を掛けると、隣にいた友人が口を開いた。
「ねえあかね…ホントに何も聞いてないの?」
「別に何も…」
昼間の打ち合わせが増えてはいるけれど、それは取引先との会食とか言っていた。
食器や食料品、インテリアの内装など。
彼の関わる企業は意外と多く、付き合いも大変だといつも言うし。
「あの…さあ、こんなこと言うのも何なんだけど」
次に口を開いたのは、子供服のブランド企業に勤めている友人だった。
「森村くんて、『JADE』辞めたの?」
「ええっ?そんなこと聞いてないよ…?」
天真が店を辞めたって、そんな話は友雅からも天真からも聞いていない。
もしそうだとしても、さすがに友雅は黙っていないだろう。
何でそんな話が出て来たのか、と尋ねてみると、彼女は首を傾げながらあかねの方を向いた。
「実はさ…こないだ私、駅裏のイタリアンの従業員口から、制服の彼がゴミ出ししてたの見ちゃったのよね」
「えっ?」
「お店の制服着てるってことは、働いているってことでしょ。だから『JADE』を辞めたのかなって思ったんだけど…」
あかねの頭の中に、この間の情景が鮮明に浮かんで来た。
友雅のプレゼントを探しに行った日、彼女が言う場所で天真に会ったこと。
あの日彼は、おつかいで来ていると言っていたけど、私服だったからその言葉に納得した。
でも、制服を着ていたと言われたら…。
「あ、こういうことじゃない?『JADE』のお休みの日に、別のバイトしてるとか」
「それは分かるけど。でもそれじゃ『JADE』が休みの意味が分からないじゃない」
会話ばかりが広がって、デキャンタの氷はどんどん溶けて行く。
推測でしかない話は、いくらでも浮かんでは来るけれど、そこに確かな正解は見当たらない。
「ねえ、あかね。橘さんに聞いてみなよ」
友人たちがそろって、あかねに迫って来た。
彼女たちにとっても『JADE』は特別な場所で、一種憧れのような空間でもあった。
そんな店がもしも閉店なんてことになったら…やはり気持ち的には穏やかでない。
「あかねになら、絶対本当のこと教えてくれるって。そしたらこっそり教えて?」
部屋の隅に飾られた、真っ赤な薔薇は目を射るように鮮やかだ。
しかし、今のあかねはその色も見えぬほど、遠くのことに想いを馳せていた。
午後10時過ぎ。
普通なら店内は客で賑わっている頃だが、今日は照明もなくひっそりしている。
明かりが着いているのは、事務所の方。
「では、今年はクローバーの鉢植えですね」
「ああ。御礼を兼ねて、皆に幸せのおすそわけ、ということでね」
液晶モニタのオーダー表を眺めながら、友雅はそう答えた。
来週の月曜は、年に一度の彼の誕生日。
それを狙って予約してくる客を、宥めるのには毎年苦労させられる。
相変わらず今年も彼は当日お休みで、愛しい人と甘い誕生日の夜を過ごす予定。
けれども、客へのフォローは絶対に忘れたりはしない。
今年は御礼のカードと、四葉のクローバーのミニ鉢植を用意することにした。
「おすそわけが出来るほど、当日は幸せに過ごすということ、ですか」
「ふふ、まあ…毎日幸せではあるけどね」
まったくどこまで、彼女に惚れ込んでいるのか。
ひとときであろうと、彼女と過ごすことが今の彼には幸せであるのだ。
それならば、その幸せを早く永遠のものにすればいいのに、とまたおせっかいをしたくなる。
先日彼にも言われたばかりだが、どうやら母の血を自分も受け継いでいるようだ。
「……?」
ジャケットの内ポケットに忍ばせていた、鷹通の携帯がかすかに震え出した。
「鷹通も、御相手からの愛のメッセージかな?」
「何をふざけて……っ」
取り出した携帯の画面を見た瞬間、鷹通は眉をしかめた。
「もしもし?」
いきなり彼は携帯を耳に当て、椅子から立ち上がると部屋の隅に移動した。
相手が相手なら、気を利かせて部屋を移動してやろうか、と思ったのだが、様子を見ていると違うらしい。
誰と話しているか知らないが、随分と動揺しているような口振り。
いつも冷静沈着な彼にしては珍しい…と思っていた時、はっと友雅は顔を上げた。
「あかねさん?どうなされたんですか?少し落ち着いて下さい、もう一度詳しく説明を……」
背後から伸びて来た友雅の手が、奪い返すように彼の携帯を取り上げた。
「あかね?」
鷹通のように携帯を耳に当てたが、そこから聞こえて来たのは…ツーッ、ツーッ、途切れ途切れの電子音。
わずかな声さえも、友雅の耳には入らなかった。
「橘さん、お帰りになられた方が良いです」
携帯を握りしめたまま、無言で立ち尽くしていた友雅に、鷹通が口を開いた。
「あかねさん、この店のことを尋ねておられました」
「店のこと……?」
最近、定休日が多いのは何故なのか。
そして…天真が別の店で働いているのは、何故なのか。
「それは、彼女に分からないようにしていたはずだろう。天真のことも先日は…」
「はい。先日は森村くんが誤摩化してくれましたが、今回はどういうところから漏れたのか…」
どこからその話題を耳にしたのか、聞き出そうとしたけれど電話はすぐに途切れてしまって。
友雅が取り返した時には、もう返事は返って来なかった。
「取り敢えず、早くお帰りになって下さい。そして、あかねさんとお話された方が良いと思います」
今にも消えてしまいそうな、かぼそい声が忘れられない。
その頬に滴が流れてもおかしくないくらい、小さな声はどこか寂し気で悲し気で。
「すべて、打ち明ける時期なのかもしれませんよ…」
ジャケットを羽織り、彼女がくれたブリーフケースを抱えて、車のキーを握りしめた友雅は、鷹通の声に立ち止まって振り返る。
「あかねさんには、すべてを知る権利がおありです。それと…橘さんの言葉を、きっとお待ちです」
もう、良いだろう。
自分たちにとっても、打ち明ける時期が今なのかもしれない。
彼の知らない、彼女の知らないことを口にしても良いと、運命の神様が扉を開けてくれたのだ。