Stand By Me

 11

午後11時近くに、インターホンの音が部屋に響いた。
ドアを開けると、いつも通りに抱き寄せられて、"ただいま"のキスをされる。
「今日はちょっと遅かったですね。夕ご飯…どうします?」
「用意してくれているのなら、少しでも味わうよ」
普段から帰りが遅めの彼の夕飯は、大概軽めのものを作りおきしている。
オニオングラタンスープや、リゾットに薄味のフォーなどで。
「じゃ、シャワーが済むまでに、用意して暖めておきますね」
彼がバスルームに向かうのを見届け、脱いだジャケットにブラシを掛ける。
再びキッチンへと移動し、スープを暖めてトマトでサラダを作り、カトラリーをテーブルの上にセッティングして、彼が席に着くのを待つ。

何だか私、主婦みたいだよね…やってることは。
旦那様の帰りを待って、身体を気遣って軽めの食事を作って。
脱いだ服の手入れなんかしちゃって、知らない人が見たら夫婦って思われるよね。
……夫婦。
……夫婦かあ……。
うっすらと遠くに聞こえる、シャワーの音に耳を傾ける。
でも、見えると思ってるのは私だけかな…。
やっていることはそうでも、実際はどうかなんてわからないもん…。

ふと、あかねはあることを思い出した。
そして椅子から立ち上がると、寝室の方へと向かった。
クローゼットの左側の扉を開くと、そこはあかねの専用スペース。
その下にある小さな引き出しを開けると、奥にそっと納められている赤いベルベットの小箱。
蓋を開ければ、そこにあるのはピンクの石が着いた指輪がひとつ。
あかねはそれを台座から外して、何気なく左手の薬指にはめてみた。

「……薬指の指輪…」
手をかざしてみれば、きらきらと華やかに輝くピンクトルマリン。
ピンキーリングじゃなく、人差し指でも中指でもなく、薬指にしっくりとはまるのは気のせいだろうか。
彼がくれた、大切な指輪。
エンゲージではなくとも、好きな人から贈られた指輪は特別な感情があって。
もし、これひとつで永遠が手に入るなら……。

カチャ、とドアが開閉する音が廊下から聞こえた。
あの金属音は、バスルームかサニタリールームのドアが開く音だ。
慌ててあかねは指輪をしまい、すぐにダイニングへ戻った。

「おや、気が早いねえ。ひとこと言ってくれたら、寝室に向かったのに」
「そ、そんなんじゃないですよっ…」
ぱたぱたと慌てて、ダイニングテーブルに向かう。
あかねの後を追いかけるようにして、彼も椅子に腰を下ろした。
冷えた甘めの発砲白ワインのミニボトル。
慣れた手つきで栓を開けた彼は、まず自分のグラスに三分の二ほど注ぎ入れる。
そして、もうひとつ用意されているグラスへは、少量を。そこに多めのカシスリキュールを入れ、カランと涼し気な音を立てながら軽くステア。
「さあどうぞ、プリンセス」
一見キールかキール・ロワイヤルと言ったところだが、それにしてはちょっとワインが甘口過ぎるか。
でも、彼女と半々で飲むにはこの程度で。
酔うためのアルコールではなく、食事の傍らに飲むにも丁度良い。

「暑いときは、発泡酒が口に涼しくて良いね」
「うん…。でも、友雅さんて、ビールとか飲んでる印象ないです」
「そうだな。あまり飲む機会はないね。発砲系なら、こういうシャンパンかスプリッツァーとかだな」
長く一緒にいても、缶ビールを口にしているのを見たことがない。
その長くてしなやかな指先で、綺麗な色のアルコールを注いだグラスを傾ける。
彼のイメージは、今も昔もそんな感じだ。
いつでも、華やかな世界にいるのが似合う人。
日常の生活感など皆無で、モデルハウスかホテルに住んでいるような。
はじめて彼の部屋に行ったときも、イメージ通りだった。
食器も食料品もない、綺麗でゴージャスなだけの無機質な空間。
だけど今、こうして二人で過ごす彼の部屋は、あの頃とは正反対で。
あかねの私用物が増えた分、部屋の雰囲気ががらっと変わった。
冷蔵庫の中身、調理器具、クッションの柄や雑誌類、DVD。
彼一人の暮らしでは存在しなかったものが、今はあたりまえのようにそこにある。

…私の私物が入ったから、友雅さんの部屋…変わっちゃったんだ…。
はじめてプレゼントしてくれた、愛用のマグカップ。
あの時彼は、こう言った。
"他人の日用品を持ち込まれるのは、好きじゃない"と前置きして、
"他人の気配はいらないけれど、恋人の気配ならあっても良い"……と。
彼が受け入れてくれた瞬間を、このカップを使う度に思い出す。

好きになってしまって、忘れられなくて、身分違いなんだからと言われても諦めきれず、彼の店に通った日。
ただ眺めていられれば良かったのが、突然運命の輪は急スピードで動き出した。
店ではなく、彼の部屋を訪れるようになり。
口づけも肌を重ねることも、普通になって。
お互いに恋人として認め合い、それから数年後-------------今もこうして向き合って見つめている。

「……で、あかねも一緒に行けるかい?」
「えっ?」
「今度の日曜に、鷹通の母上が帰国するんだ。もちろん彼も迎えに行くけれど、あかねも一緒にどうかって言うんでね」
もちろんリクエストしたのは、鷹通の母だ。
到着したら一緒に食事でもしないか、という希望まで言われた。
「日曜だし、用事がなければどうだい?」
「うん、行きます!あ、でも…」
?と友雅が、首をかしげてあかねの顔を覗き込む。
「ええと…月曜日の夕飯の買い出し、したかったんですけど…」
6月11日の月曜日だけは、特別のディナーメニューを用意したい、そんな日。

ああ、なるほど…。
やっと友雅は、その日が何なのか自覚した。
「じゃあ、買い出しに間に合うように、食事も退席させてもらおう」
理由を話せば、きっと鷹通の母も快諾してくれるはず。
自分の誕生日をもてなすために、食材を揃えに行きたいという、愛しさ溢れる彼女の意志を。
「あ、それと…金曜日に大学の友達と、ご飯食べようって約束したんですけど」
「へえ…。ちなみに、お友達は女性かい?」
こくんとあかねがうなずくと、友雅の手が軽く頭を撫でた。
「なら安心だ。私はその日も仕事だから、楽しんでおいで。ああ、でも帰りはタクシーにしなさい」
気の知れた女友達同士なら、つい時間を忘れてしまうこともあるだろう。
金曜の夜遅く、帰り道を一人で…なんて、とてもさせられない。
「遅くても早くても、店で車を呼んでもらうんだよ?」
「んもう…分かってますよ」
苦笑するあかねの顎を、友雅の指先がつついた。

こうして向き合って話していると、不思議と余計なことなんて考えられない。
いつも通りに、笑いながら言葉を交わしていられる。
こっそり眺めていた指輪の想いなど、なかったかのように忘れてしまっていて。
目の前にある現実の甘いひとときと戯れて、ただひたすらに幸せな気分に浸っていられた。



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Megumi,Ka

suga