その日、友雅は自分の車で店に来た。
以前はこうして自らハンドルを握り、店に通っていたものだったが、最近はその頻度が少し減った。
理由は、昼間の用事が増えたからだ。
そういう時は決まって鷹通が、運転手を兼ねて目的地へ送迎してくれるのだ。
暗証番号で関係者入口のドアを開け、地下にある事務所に入る。
諸々の雑用を済ませてから出勤するとのことで、鷹通の姿は見えなかった。
「珍しく、一番乗りか」
笑いながら独り言をつぶやき、出勤表に『ON』のバッジを張り付ける。
人の気配のない事務所。
夜の商売とは思えないほど、整理整頓されたデスク周り。
ここだけ見ていれば、普通の会社のオフィスと言っても通用するだろう。
使用する人間の性格が、一目で分かる。
鷹通は金融機関に立ち寄ってから、出勤してくると連絡があった。
従業員たちがやって来るのは、もっと後のこと。
しばらくは、一人でのんびり時間を潰すことにするか。
自宅と同じタイプのエスプレッソマシンに、ダークグリーンのカプセルをひとつ。
手軽だし、味も十分だと思うけれど、それはあくまで個人として楽しむ場合。
機会に頼らず、自分の手で上手いエスプレッソを入れるコツは、本職のバリスタに伝授してもらうしかない。
「あとで、腕前を味見させてもらおうかな」
出来上がったエスプレッソをすすりながら、友雅はデスク横にある書類棚の扉に手を伸ばした。
この店を始めた時からの書類や帳簿が、紙とデータとで保存されている。
こんなに長く続くとは思っていなかったのに、随分と上手く気流に乗れたものだ。
絶えるどころか増えるばかりの顧客数。
不況だというのに、営業成績は水準以上を常にキープ。
従業員への給与額も、オーナーである友雅の取り分も、生活にゆとりを持てるだけの収入。
もしこれが海外だったら、"アメリカンドリーム"と称されるかもしれない。
真ん中の書類ケースの引き出しを開けると、いくつかの契約書に紛れて、白い封筒が入っている。
金色の文字でブランド名が刻まれたそれを手に取り、中にある二枚の小さな紙を広げてみる。
細やかに明記された、鑑定書と鑑別書。
彼女に贈った指輪の正体が、ここに記されている。
真実を知る者は、ほんのわずか。
彼女は……知らない。
でも、いつかしらは本当のことを伝えなくてはならない。
そのつもりで選んだ指輪だ。彼女のために、想いを詰め込んで選んだ指輪だ。
だから出来るだけ早く、自らの改革が必要だと思った。
彼女のために、変わらなければと。
指輪に秘められた真実を紐解いてやるために、時間を掛けて足場を踏み整えて。
「けど、もうそんなにゆっくりしていられない…か」
廊下から足音が近付いて来て、丁寧に事務所のドアが開いた。
「今日は随分とお早い出勤ですね」
「一人でぶらぶらしていても、暇なだけなのでね」
鷹通がロッカーに向かっている間、エスプレッソのカプセルをひとつセットする。
濃いめの味より、オーソドックスな味が彼の好みだった。
「契約についての書類は、今日で全て完了しました。これからは、作業に集中出来ますね」
「そうか。だが、本番はこれからだね」
店内のディスプレイは、まだ工事中。
着実に完成には近付いているが、隅々まで妥協せずこだわりをちりばめて。
新しいからこそ、印象に残る何かを感じてもらわねば、リピーターになってもらえない。
「オープン前のレセプションに、招待するお客様もそろそろチョイスしなくては」
本来ならば、常連客全員をもてなしたいのだが、そこまでキャパの広さはない。
招待出来ない客については、オープンのおしらせにサービスチケットを添えて贈ってはどうか。
「ええ、それは良いアイデアですね。それでしたら、皆さんお顔を見せに来て下さるかと思います」
そんな会話をしながら、鷹通はパソコンの前に座った。
デスクの上にある引き出しが、少しだけ開いている。
いつもは一番下に忍ばせてある封筒が、無造作に上に置かれていた。
「あかねさんは…ご招待されないのですか?」
鷹通は、常々気になっていたことを尋ねた。
まず、第一にあかねのことを考える友雅が、彼女を新しい店に招待しないのも考えられない。
今のような夜の商売ならともかく、今回の店は一般的な客層をターゲットに作られている。
ならば、彼女を店に招いても問題はないだろうに。
「もちろん、いずれは…と思ってはいるんだけどねえ…」
書類の間に隠した鑑定書。
その存在も、新しく生まれる店のことも、まだ彼女には知らせていない。
まず、それを伝えるところが、彼にとっての難関か。
「ですが、あかねさんが気付かれるのも、時間の問題ではないでしょうか…」
モニタに映し出されたメーラーをチェックしながら、ソファでくつろぐ友雅に鷹通は言う。
「最近は臨時休業が多いですし。そうすれば他店はあれこれ詮索するでしょう。少なからず、噂も立つでしょうし。」
業界ではそこそこの老舗で、この界隈に限らず有名店である『JADE』の動向は、誰もが注目して見ている。
噂が広まれば、いずれは彼女の耳にも届くかもしれない。
あかねの友人や知人を辿れば、ここらの店に通う女性がいる可能性だってある。
それに、思い掛けない偶然のハプニングもある。
「先日の森村くんのようなことも、もうないとは限りませんからね。」
その度に誤摩化しても、回を重ねれば彼女だって疑問を抱くだろう。
「もし、あかねさんが他からこの事を知ったら、複雑なお気持ちだと思いますよ」
「………」
カチカチ、とキーボードを叩く音が響く。
エスプレッソの苦い香りが、カップから立ち上る。
「あかねさんは、橘さんのお仕事を大切に思ってらっしゃいますから」
パソコンを見つめながら、鷹通は話を続ける。
「母も言っていました。『あかねさんは橘さんのお仕事を尊重されている』と。」
彼の仕事を邪魔する事は、絶対にしない。
例え二人の時間に急な仕事が舞い込んで来ても、そちらを優先するようにと逆に彼をただす。
「あの方は、ご自身の域をしっかりと理解されています。自分を押し出す事をしない方でしょう」
「そうだね。わがままを言うことは殆どないな。少しは強引になってくれても、私は構わないんだが」
「それを、なさらないのがあかねさんでしょう。今の若い女性には珍しい、良妻賢母の素質がある方だと母が言っておりました」
または、大和撫子…とも言えるだろうか。
見た目は愛らしくても、芯の強さを持っている。
そして、彼を癒す空気を作り出す。
「いやまあ、私のプリンセスをそこまで賛辞してくれるとは、嬉しいね」
「だからですよ。橘さんには、あかねさんがお似合いだと思うんですよ」
-----------お似合い?
空っぽのカップをテーブルに戻し、友雅はソファから起き上がった。
「それに、お二人は第三者の目から見ても、既に普通の恋人関係より一歩進んでいるように思えます」
「友達以上、恋人未満のような?」
「いえ、恋人以上、夫婦未満、といったところでしょうか」
恋人ではあるけれども、一般的な関係よりも深く強く。
かといって、夫婦という絆があるわけでもない。
しかし、限りなくそれは夫婦に似た雰囲気に思える。
「未満でなくなるかは、橘さんのご意志次第なのでしょうが」
「ふう…やっぱり親子だねえ。そういうところ、母上にそっくりだよ」
「私にとっても、完全に他人事というわけではありませんから」
プライベートな話題で、こんなにも鷹通が饒舌なのは珍しい。
何より、お互いにここまで親密な内容を話し合ったのも、今までなかったのではないか。