駐車場に戻り、荷物を車に積み込んでしまうと、ここにはもう用はなかった。
週に一度の買い出しは終了。一週間分の食糧は、これでほぼ賄えたと言って良い。
そのままマンションへ帰り、生ものや食料品を適材適所に保管する。
「あ、そうだ…そろそろお昼ですね」
すっかり正午を過ぎているけれど、休日のランチタイムは一時間遅れなんて平気。
何を作ろうかな、と冷蔵庫を開けて考える。
トマトやバジルもあるし、鷹通の母に教えてもらった冷製パスタにしようか。
「友雅さん、パスタ茹でるのでちょっと時間掛かりますけど、良いですか?」
「ああ、構わないよ。待った甲斐のある味を期待しているよ」
「そんなプレッシャー掛けないでくださいよー」
困ったように言いながらキッチンに立つあかねの背中を、微笑ましく眺めてから友雅はリビングに戻る。
そして、ブリーフケースに仕舞っていた、ノートパソコンを取り出し起動させた。
事務的な処理については、すべて鷹通が行っている。
彼に一度目を通してもらったあとで、友雅の方に必要事項と内容が伝えられるようになっている。
なので、直接友雅が一対一で交流する相手は、さほどいない。
頻繁にパソコンを起動して、メールチェックをする必要はあまりなのだが、週に一度くらいはやっておかねばまずいだろう。
「ふう…これだから面倒なんだ、メールは」
久しぶりに開けたメールボックスには、膨大なDMの数が連なっている。
100のうち、99が無駄な迷惑メール。
こんなもののチェックに時間を使うなんて、本当にばからしい。
それらのメールは差出人に沿って、一気に削除されすっきりと整理された。
ふるい落とされた中で、残っている数件のメールをようやくチェックする。
……ん?彼女からか。
イタリアからのメールが届いている。
鷹通の母からのものだ。
先日携帯に連絡してきたくせに、パソコンにまでメールすることもないだろうに。
内容は、彼女を通じて新しく仕入れた、イタリアワインの製造者についての情報。
これまでとは違ったテイストで、軽めのシリーズを探してもらっていたが、数件の良いワイナリーに決まりつつある。
帰国した時に契約書を持って行くので、準備を整えておいてくれ、というビジネスメールだった。
が、彼女からのメールが、そんな堅苦しい内容で終わるはずがない。
それとは別に、もう一通。
こちらのプライベートメールが、彼女にとってはメインだったのだろう。
『ところで、あかねさんはお元気かしら?お仕事に就いて一年過ぎたし、随分と日常生活にも慣れて来た頃だと思うけど、二人とも相変わらず順調だと鷹通から聞いているわよ』
息子から、何の話を聞き出しているのやら…。
鷹通も他人の恋人の話を、自分の母に伝えることに違和感を覚えているだろうに。
その後、だらだらとあかねの話が綴られている。
帰国したら一緒にあそこに行きたいとか、食事に行きたいとか、今から連れ回す気満々の様子が文字から分かる。
まあ、あかねも楽しそうだから、水をさすようなことはしないけれど。
そんな雑談とも言える内容が続いたあと、最後をしめくくるように一言が添えられていた。
『私が帰国する時までに、あなたたちに進展があることを期待しているから』
…進展…ね。
彼女の言う"進展"は、つまり自分たちの将来についてのことだ。
長らく続いている恋人の関係から、前に進むこと……将来を誓うこと。
どうやら随分と期待をしているようだが、そんなことあっさりと決められるものでもない。
いろいろと、整理や準備が必要なんだよ。
心地良いだけの現状では、先のことを見通せないから。
まだ、準備段階。もう少し…時間が必要だ。
自分の身辺も、自分の心にも。
「そろそろ出来ますよー」
食器が触れ合う涼し気な音と、甘くて香ばしい料理の香りがダイニングキッチンに漂って。
体裁を整えるためだけにあった部屋が、意味を持って動く。
その空気を動かしているのは、彼女だ。
ただのマンションの一室を、楽園のように変えたのは彼女の力だ。
腕の中に閉じこめられるほど、小さくて華奢な身体が自分の世界を変えている。
テーブルの上に、ガラスのプレートを並べ、冷蔵庫から冷えたペリエのボトルを取り出す。
二人分の料理を当たり前のように用意し、向かい合って食事することが日常となって…もう何年経つんだろう。
分かっている。
そろそろ立ち止まってはいられないことも。
だから自分なりに、進んでいるつもりなのだ、これでも。
「一段落出来ます?」
「ああ、大丈夫。もう終わるよ」
メールボックスを片付けて、一通だけプリントアウトの設定をしてから、友雅はダイニングテーブルへと向かった。
「何か、大切なメールがあったんですか?」
カタカタと動いているプリンターを見て、あかねが言った。
「たいしたものではないよ。ここの契約更新のメールが、不動産屋から届いてたのでね」
契約更新…。この部屋の。
「早いものだねえ。ここに来たときは、君も大学2年だったのに」
「そっか…そうですね…」
もうそんなに時間が過ぎていたのか。
『JADE』が入っているビルの、最上階ペントハウスを自室にしていた彼。
度々そこを訪れていたけれど、この部屋を借りてからは大学の講義が済んだら、そのまま直行でここへ。
彼が帰ってくるのを待って、こんな風に食事の用意をして、甘いひとときに包まれて眠る…今も変わらない。
「更新、するんですか?」
「別に不自由はないからね。広さも交通の便も設備も、それに…あかねも通勤に楽だろう?」
「うん、そうですけど…」
アパートからも、大学からも、通いやすい立地物件を選んだんだ、と当時彼は言っていた。
危ない夜道を通らなくて良いように。そんな風に、いつも気を使ってくれていて。
暗証番号に、私の名前なんて入れちゃうくらい…友雅さんは考えてくれてる。
だけど、いつまで私はここにいられるんだろう。
賃貸の契約更新は簡単に出来るけれど、私がここにいられる契約期間は…いつまでなんだろう。
"恋人"という名の称号は、どこまで、いつまで現状が続くのか分からない。
「取り敢えず、来週の月曜にでも挨拶がてら、不動産屋に更新に行って来るよ」
「そうですか…月曜」
何気なく、あかねはカレンダーを見た。
明日、じゃなく来週の月曜日か…。
友雅さんは夜からの仕事だし、昼間なら出掛ける時間あるよね………。
………!!!
カチャーン!と床に響く金属音は、あかねの手から滑り落ちたフォークの音だ。
銀色のシンプルなフォークは、彼女の足下に転がっているのだが、それに本人は全く気付いていないようで、唖然として身動きもしない。
「あかね?」
声をかけても、立ち尽くして返事をしないあかねの代わりに、友雅がフォークを取り上げた。
そして肩を軽く揺すると、はっとしてようやく意識が戻った。
「どうしたんだい?具合でも悪いんじゃないだろうね」
「えっ?ち、違います!な、何でもないです!」
落としたフォークを受け取り、すぐにゆすいでまたテーブルに戻って来た。
ワインを注ぐような仕草で、友雅はあかねのグラスにペリエを注いでくれる。
小さな泡がパチパチと音を立てて弾けるのを、あかねはぼうっと眺めながらひとつの事を考えていた。