「おかえりなさいー。お仕事お疲れさまでした」
ドアを開けてくれた彼女を引き寄せ、ただいまの代わりにキスをいただく。
甘酸っぱい味の理由は、テーブルの上を見てすぐに分かった。
ガラスカップの中に、バレンシアオレンジとシチリアレモンのムース。
柑橘類が二つも重なっていれば、唇だって同じ味になる。
「シャワー使いますよね。その間に夕飯の用意を……って!とっ、友雅さんっ!」
キッチンに行こうと思ったら、急にふわりと身体が宙に浮いて。
「夕飯はあとでゆっくりね。まずはシャワーが先だよ」
「わ、私はもう先に入ってますよー!」
「二回、三回入っても溶けたりしないから大丈夫」
そういう意味じゃなくって、違う意味で溶けてしまいそう。
汗をかいたグラスに、今日は辛口のワイン。
店の上に住んでいた頃は客に付き合って飲んだけれど、今は車で通っているからアルコールはお預け。
その分自宅ではゆっくりと、好みのボトルを開ける。
彼女お手製のテリーヌとリエットと共に。
「でも、昼も営業って色々と大変じゃないですか?」
「だろうね。だが、ランチタイムやカフェタイムを設ける店が増えれば、昼間も町に客を呼び寄せられるだろう?」
友雅はあかねに、今日の会議の内容を簡潔に伝えた。
町のイメージチェンジを計るため、一部の店舗に昼夜二部制経営をしてもらおうという企画。
昼間は誰でも入れるカジュアルな店構えにして、夜はこれまで通りの経営をそのままに。
これまでは夜しか客が増えなかった町に、昼間から足を運んでくれる客が増えれば雰囲気は変わる。
夜と違って昼なら老若男女も行き交うだろうし、行政も納得するのではないかと。
「うちもいずれは、そういう形で経営していくつもりだよ」
「『JADE』も昼間にお店開くんですか」
「1階部分をオープンタイプにして、バールのようにしたらどうか思ってね」
昼向けに軽めのスパークリングワインを中心に、ソフトドリンクも少し増やして。
簡単なランチプレートも用意し、ちょっとしたカフェに昼間は方向転換。
「洒落た感じの店が増えれば、あかねみたいな若い女の子も来やすくなるかな」
「そうですね。夜は女の子だけでは歩きにくい町ですもんね…」
あかねも『JADE』に来る途中で、何度も呼び込みに捕まったことがある。
ガラの悪い酔いかたをしている人も大勢見かけたし、これじゃ足が遠のく人がいても仕方ない。
「だけど、これまでの雰囲気は壊さずに『JADE』は続けて行くよ」
「…良かった。バールみたいな感じも新しくて素敵ですけど、今の『JADE』も素敵ですから」
「思い出の場所は残す、と約束したからね」
二人が出会った場所、初めてキスをした場所。
あの場所に刻まれた記憶が多すぎて、いつもその酔いが醒めない。
ペリエレモンのミニボトルを飲みながら、あかねは友雅に寄り掛かる。
肩を抱かれると顔を上げて、視線がぶつかると頬をすり寄せる。
「冷たいものが美味しく感じるのは、夏が近いせいなのだろうね」
「ん、そうですね」
店に来ていた客から、今日ついに梅雨入りしたと聞いた。
しばらくはじめじめしそうだが、それが終われば暑い夏がやって来る。
「そういえば、今年の夏休みはいつ頃取れるんだい?」
「え?多分…去年と同じくらいだと思いますけど」
「用事は?何か既に予定が入っていたりする?」
「…ないです」
何もないから、打診してみようかなと思っていたところだった。
通勤用のバッグの中には、生協で貰って来た旅行パンフも詰まっているし。
だが、あかねが動くよりも友雅の方が一歩早かった。
「だったら、また一緒にイタリアまで着いて来てくれるかい?」
「ええっ?」
イタリアってことは、買い付けか何かの仕事で?
「そう。でも今回はアマルフィの方に行く予定なのだけど。」
だから、今回はお目付役は無し。完全に個人旅行のような感じになる。
「だけど…それじゃ仕事の邪魔になりませんか、私」
「むしろいてくれた方が、有り難いかな。今回はメニューのアイデア探しも兼ねているから」
ワインなどの知識はあるけれど、食に関しては自信があるとは言えない。
あかねのような、客側目線の感覚に頼った方が店には良いかもと思う。
「何より、ずっと二人きりで過ごせる。最高のバカンスになると思うのだけど」
地中海が一面に広がる、世界遺産のアマルフィ海岸。
美しい町並みと古い建物、レモン畑に新鮮な魚介が豊富な港町を、二人で歩きながら過ごす夏休み。
「私はいくらでも日程を調整出来るから、あかねに合わせるよ。どうだい?」
「行きます行きます!もちろん!」
思わず、自然に首が縦に動いた。
だってどれだけ考えても、嫌と言えるような要素が見つからない。
「実はですね、私も色々考えてたんですよね」
あかねはバッグを開けて、中から旅行のパンフを取り出した。
「夏休みの旅行は早く立てた方が良いって、仕事場でも言われたんで」
行きたいところは思い付かなくて、適当に選んだパンフは国内外まとまりがない。
どこでも良かった。彼と一緒だったら。そう思っていたから。
「旅行費はうちで持つから、予定が決まったら連絡しておくれ」
「あっ、でも私も今回は少し払います!」
渡航費か宿泊費を…とはさすがに言えないけれど、せめて向こうでの食事代くらいなら出せるんじゃないか。
「それくらいさせて下さいよ。私だって旅行出来るように、少しずつ貯蓄してたんですから」
初めての旅行の時は大学生だったから、厚意に甘えてしまったけれど今は違う。
収入レベルは比べものにならないが、働いて給与をもらう社会人という意味では同じなのだもの。
「分かった分かった。じゃあ食事代はあかね担当ってことに決めよう」
「はい、了解しました!」
相変わらず彼女は、むやみやたらに甘えを押し付けない。
もっと猫なで声を立ててくれても構わないのだけど、それをしないから裏表も何もない。
だからかえって、甘えさせたくなる。
こちらからけしかけて、嬉しそうな顔を引き出したくなる。
計算されていない天然の素直さは、時に名策士以上の力を発揮する。
気がつかないうちに彼女から目が離せなくなり、気付いた時には抜け出せなくなっている。
「夏休みーはーイタリアっ♪」
手帳のカレンダー8月のページは真っ白だったけれど、これでスケジュールが埋まった。
休みは1週間だけど、この際だから有休も合わせてしまおうか。
「何日くらい向こうにいる予定ですか?」
「まだはっきりは決めていないけど、2日くらいは機中になってしまうことを考えると、少し長めに考えたいね」
せっかく遠くまで旅行するのだし、滞在期間を多めに取りたい。
そうなるとやはり、10日前後は必要だろうか。
「じゃあ有休申請します」
あっさりと、あかねは答えた。
普段からたいして急用がないので、有休を消化しきれない状態だった。
今はむしろ有休を貯めておいて良かった、と思える。
「大丈夫かい?10日も連続で」
「文句言われないように、それまではしっかりお仕事頑張りますから」
そう。楽しみがことが待っていれば、それまでの困難も少しは気楽になる。
彼女との出来事には、いつもそんな楽しさが着いて回る。
静かに雨が降り出した。
明日の天気予報は、梅雨らしく雨模様。
どんよりした日は現実の天気など無視して、その先にある夏を二人で思い描こう。
--------THE END
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