帰宅したのは午後7時なのに、10時を回った現在でも夕食を手に付けていない。
そもそも今夜は、用意さえもしていない。
一人だからという怠慢から来ているわけではなくて、悠長にキッチンに立つ余裕さえなかったからだ。
テーブルの上に置かれたぬるいカフェオレを入れ直しもせず、あかねはずっとノートパソコンの前に座っている。
寝る時間が遅くなるけど今夜だけは我慢して、と鷹通の母に念を押された。
滅多に起動することのないSkypeを開き、言われた通りにあちらからアクセスされるのを待っている。
呼び出しが入ったのは10時15分頃。
すぐにビデオ通話で応答をすると、ウィンドウに異国の地にいる彼の姿が映し出された。
『こういうのはあまりやらないけれど、モニタを介していても顔を見ることが出来るのはやっぱり嬉しいものだね』
「えっと…まだそっちは昼間ですよね。ホテルにいるんですか?」
『話は殆ど午前中でまとまった。明日の昼の便に乗るから、早めに荷造りしているところだよ』
今回は買い付けではなく視察がメインなので、荷物はさほど多くはないのだけれど…と言いながら、友雅はカメラを移動させテーブルの上にポイントを合わせた。
『この辺りは老舗薬局のコスメが人気があるらしくてね』
クラシカルで洒落たデザインのソープやボトルが、モニタの向こうにずらりと並んでいる。
どれもこれも、日本ではあまり見かけないものばかり。
『これはサンタマリアノヴェッラ、その隣はサンティッシマアンヌンツィアータ、反対側のはスペツィエリエ……』
まるで呪文のように長いブランド名。
メディチ家御用達の店だとか、そんな長い歴史がヨーロッパには今も存在する。
『自然に香りを身に纏うものの方が、あかねには似合う』
毎日のバスタイムで身体を洗い流したあと、ほのかに持続する残り香。
香りを主張するコロンと違い、それは直に触れあえる者だけが知る甘美な香り。
『勝手に選んでしまったが、気に入った香りがひとつでもあれば良いのだけど』
とは言っても、一緒に暮らしていれば大体相手の好みが自然と分かってくる。
シャンプー、柔軟剤、コスメ…日常的に使うものの選び方や揃え方で、おおまかな好みは把握済みだからハズレはないだろう。
その他にもあかねへのお土産は、山のように買ってある。
荷造りをする理由は殆どがそれで、彼女の好きなイタリアのチョコやクッキー、ミラノで買ったショールやアクセサリーなどがトランクの中の半分を占める。
『あとは帰ってからのお楽しみにしよう。日本はもう遅いしね』
では、本題に行こうか。
友雅はそう言うと、少しだけ姿勢を正してモニタに顔を近づけた。
『お父上が店に来られたそうだね』
あかねは黙って、静かにうなづく。
彼女にも寝耳に水の出来事だった。
鷹通の母から連絡があった時、驚きで声を失ったほどだった。
いつかは父に友雅を会わせなければいけないことは理解していたし、来るべき日に向け心の準備をしている途中のことだった。
おそらくそれは、友雅も同じだっただろう。
こうして、珍しくSkypeで顔を合わせて話そうと言って来たのはそのせいだ。
『運が悪かったね、私がこちらにいる時とは』
彼は本気でそう思っているのか。
あかねのように、どこかホッとしてはいないだろうか。
段階を踏んで、きちんと席を設けて、お互いに心構えをした上でならまだしも…。
『穏やかそうな御仁だと聞いたよ』
「…昔ながらの頑固親父ではないですよ。厳しいってほどでもないですし」
『でも、あかねは大切な一人娘なのだから。それなりに門限やらのルールは提案されただろう?』
前もって、鷹通の母から色々なことは聞かされていた。
昔からよく知る天真のエピソードも合わせて感じたあかねの父の印象は、けっして取っ付きにくいものではなかった。
娘に対する扱いも珍しいものではなく、男親ならあたりまえの行動ばかり。やりすぎる厳格さや気難しさは感じられない。
『同僚との食事ついでに、娘の相手の品定めという感じだったのかな』
「多分そんな感じですね…。何だかすいません、みんなをバタバタさせちゃって」
『謝ることではないよ。お父上の気持ちはよく分かる』
既に母親の方が本人と対面している。言葉で聞かされることよりも、自分の目で確かめたいと思って当然だ。
しかも、その相手が経営する店に行く機会が出来たとなれば、なおさら。
『サービスチケットを渡したこと、鷹通の母上から聞いているかい?』
「えっ…」
開店して間もない頃に、先着でサービスチケットを限定配布していた。
次回の来店で飲食代が20%OFF、更にドルチェかワインの追加が無料になるというもの。1枚のチケットで2名まで利用できた。
それを今、しかもあかねの父と同僚にだけ渡したというのは…当然鷹通の母の機転である。
また気軽に来店できるように、このチケットは言わば彼女の橋渡し。
『ご夫婦でまた来てもらっても良いし、なんなら…あかねがお父上を誘って一緒に食事をしても良い』
以前の、母と食事をした時のように?
『もちろんその時は個室を用意しておくし、前回同様に完璧なおもてなしするよ』
そうしてあの時みたいに、彼が再び交際宣言を…?
『これは、私たちの未来のために避けられない最重要事項だよ』
どんな展開が待ち受けているか。
普段穏やかな性格でも、場合によっては豹変する可能性だってある。
でも、あらゆる可能性や想定外のことが起ころうとも、二人で決めたこと。誓ったこと。
一緒に生きる道を築くには、一緒に足元を切り開いていくしかない。
幸い自分たちには味方が多くついている。声を掛けずとも助け舟を予め用意してくれるような、少しおせっかいも兼ね備えた有り難いサポーター。
力を貸してくれる彼らのためにも、自分たちは前を見て行かなければならない。
『あかね、もう少し顔を近づけてくれるかい』
「はい?」
『ああ、ごめん。画面じゃなくてカメラの方に、だな』
言われた通り身を乗り出して、フレームの上部にあるレンズをじっと見る。
しかし、彼から何も反応が返ってこない。仕方ないのでこちらから切り出す。
「どうしたんですか。何か気になることありました?」
『やっぱりモニタ越しのキスじゃ、味気なくて意味がないなと思ってね』
カメラに接近するとモニタが見えないから、何をしているのか分からなかったけれど、そういう魂胆があったのか。
『早く日本に戻って、思う存分本当のキスをしたいよ』
「……キスだけ良いんですか?」
離れた時間が長かったせいなのか、意味深な台詞がすらりと口から飛び出した。
唇を重ねるのも良いのだけど、もっと幸せを感じられる方法を二人は知っている。
『あかねは不意打ちを食わせるのが上手くて困る。そんなことを言ったら…どうなるか分かってるのかい?』
十分に分かってる。分かっているからこそ、出た言葉。
ここで知らないふりをするのも手かな?と笑ってごまかしてみるが、相手が彼じゃ到底敵うわけもなく。
「空港まで迎えに行きますね」
旅行に合わせて有給を取れなかった代わりに、彼が帰国する当日に休みを入れた。
帰宅するのを待っているよりも、空港までいけばその分早く、そして長く二人の時間を過ごせるから。
お互いに話したいことはたくさんある。
日常的な出来事、旅先でのこと、避けられない問題のこと…一緒に語り明かせば何かがきっと見えてくる。
『あかねを見つけたら、その場でキスしてしまいそうだな。映画のワンシーンみたいに』
「いやいや、それはさすがにダメです!いくらなんでも!」
『そうだね。キスから先へ進みたくとも、他人が行きかう場所じゃ少し躊躇する』
こんなふざけ半分の会話も、顔を見て話せるとホッとする。
だが、いつまでも続けてはいられない。
向こうが昼下がりに近付けば、こちらは日付が変わる時間に近付く。
『さて、明日も仕事だろう?そろそろベッドに入ったほうが良いよ』
話し始めてまだ1時間にも満たないのに、もうさよならをしなければならない。
でも、あと1日すれば普段どおりの日々が待っている。
その確信があるから、昨日と違って寂しくはない。明日が来るのが待ち遠しくてたまらない。
モヤモヤは残っているけれど、それらを消すのは彼が帰ってからだ。
『おやすみ、私のジュリエッラ』
ログオフにすれば、この声も姿も消えてしまう。
しかしこの寂しさは、すぐに大きな喜びになって返ってくる。
一人で眠るベッドが暖かく感じられるようになるまで、カウントダウンは始まっている。
その時を待ちながら、そして夢で彼を思い出しながら眠りにつこう。
--------THE END
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